野田晶子俳句の詩型
高木良多
私はさきに「菽水と蕪村」(春耕27年3月号)、「若月瑞峰と高橋由一」(春耕27年7月号)、ついで「富田直治俳句の詩魂」(春耕27年9月号)を書いてきた。
今回は同様の趣旨で「野田晶子俳句の詩型」について書いてみたいと思ってきた。
四者は何れも「春耕」の先達で「春耕」のために力を尽してきた方々で私の尊敬していたかたがたでもあるのでその詩的背景を探求してみてきたわけである。
野田晶子は句集『新雪』の「著者略歴」によると、
大正4年11月5日に愛知県に生れ、京都大学法学部に学び、戦前満州航空、戦後中日新聞社に入社、俳句関係では職場句会「百花」、のち「風」「春耕」に入会とある。
「春耕」では主として長月句会に所属し、長月句会の会報の編集を担当していた。この会報の編集方法は独特のもので精細且つ新奇な方法を採用していた。
句集『新雪』の中の平成2年の句に、
妻逝きて今年も来る閑古鳥 晶 子
更紗木瓜びつしりと花百日忌 晶 子
新しき文字の浮きたる墓洗ふ 晶 子
の三句がある。
奥さんを亡くされたときの句で一人身となったのであろうかまた皆川盤水先生の斡旋によるものであったのであろうか、月に一回俳句作りという名目で文京区のシビックセンター内の一階喫茶室まで来ていただき私と二人、一杯のコーヒーを置き、晶子より種々のお話をうかがいながら晶子俳句を見せていただいてきた。
寡黙な晶子ではあったが二人だけなので、昔話をまじえて種々のお話をうかがった。
(つづきは本誌をご覧ください。)