曾良を尋ねて
乾佐知子
84 ─ 仙台藩伊達騒動に関する一考察 ─
前回の拙稿で仙台藩では幼君亀千代丸を守る為に前代未聞のお家騒動に発展していった、と述べたが、この騒動について『日本歴史大辞典』より概略を紹介しておきたい。
江戸時代初期、仙台藩で起った御家騒動。伊達家では親類一門の勢力が強く藩主の権力を制約しがちであったが、1660(万治三)年二代藩主伊達綱宗が所業の紊乱のゆえをもって、幕府から逼塞を命ぜられ、当時二歳の亀千代丸(綱村)が襲封した。その後藩政の実権は伊達兵部宗勝の手に握られた。(中略)兵部は伊達右京宗良、奉行の原田甲斐宗輔、小姓頭渡辺金兵衛らと結び、亀千代丸元服後も藩政を襲断した。(後略)
ここまでの内容を補足すると、〝伊達家の親類一門の勢力が強い〟とあるが、藩祖政宗には男女14人の子供がいた。騒動に関係する人物が多いので別記の家系図を見て参考にされたい。
長男秀宗は側室の子であったので藩主とならず将軍秀忠の計らいで伊豫国宇和島十万石の大名として取立てられた。
次男忠宗は正室愛(めご)姫の子で二代藩主となる。三男から十男まで七人の男子は夭折した者も何人かいるが全て側室の子であった。
十男宗勝は伊達姓を賜わり、兵部少輔に任ぜられた。伊達騒動はこの男を中心に始まったといえよう。
正室の愛(めご)姫の長女五郎八(い ろは)姫は、松平忠輝と別れた後、仙台にて政宗の慈愛を受けた。万治元年削髪して天麟院と称し、寛文元(1661)年68歳で没した。
次に二代藩主忠宗には十人の子供があった。長男虎千代は正室徳川氏振姫の子である。振姫は池田輝政の息女で、徳川家康の孫に当り二代将軍秀忠の養女として忠宗に興入れしており伊達家としては別格の人物であった。
しかしこの高貴な血筋を受けた虎千代は七歳で夭折し、次男光宗も正保二(1645)年19歳で没した。この光宗の死については、以前紹介しているが、江戸城で謎の急死を遂げている。資性聡明な人物で家光より越前守を賜わり、将来藩主たる地位を約束されていたであろうに、両親の嘆きの深さは如何ばかりであったか。松島に残る円通院霊廟の美しい建物はこの人物の為に建てられた。伊達騒動の素地はすでにこの辺から兆していたといえよう。
三男宗良の母田村氏は福島県三春を根拠地とした古くからの豪族で政宗夫人愛姫の出た家である。伊達騒動の時大きな役割を果す田村右京宗良とはこの人物である。亀千代丸が家督相続の折、叔父の兵部宗勝と共に後見人となっている。四男五郎吉が七歳で没した為、五男の宗むね倫ともが後をついで白石家に入った。
白石家は古い豪族で「後三年の役」の時、源頼朝に従って奥州に下り、刈田郡白石に居住したという。禄高一万三千石で藩内で最も
有力な家臣の一人であった。この伊達式部宗は後に伊達宗重と谷地の境界を巡って争い、騒動の原因を作った人物である。