エッセー
風化させてはならない戦火の記憶
松谷富彦
無条件降伏で4年に渡った太平洋戦争が終わる間際に広島と長崎に原子爆弾が投下され、人類史上初の被爆国になった日本。310万人の戦没者と国土の荒廃を招いて終結した悲惨な戦争から71年。月日が重なるとともに人々の記憶の風化が進み、たんなる歴史年表になろうとしています。
私の戦争体験の実感は、国民学校(小学校)の2年生から始まります。昭和19年11月14日の東京都武蔵野市( 当時は北多摩郡武蔵野町)の中島飛行機工場爆撃から本格的な米軍機の東京空襲が始まりました。「空襲警報発令」のたびに庭の防空壕に防空頭巾を被って駆け込み、空爆の地響きに息を殺す時間が次第に増えていきました。
父が中国大陸へ出征した後、幼い子供3人(長男の私と3歳の妹、そして生後間もない乳飲み子の弟)を抱えて世田谷の留守宅を守っていた母は、自分の実家がある岐阜に疎開を決意。私の2学期の終了を待って、母子四人は危なくなった東京を脱出し、安全と思われた岐阜に移ったのでした。
私の銃後の戦争体験
昭和20年が明け、私が2年生の3学期に編入した疎開先の国民学校は、間もなく校舎の半分が兵舎に変わり、兵隊さんとの同居生活になりました。授業時間が少しずつ削られて、その分、栄養源確保のイナゴ獲りの時間が増えて行きました。「イナゴ3匹で卵1個の栄養がある」と先生に言われ、懸命に獲ったのを思い出します。
3年生になって2カ月ほどすると、教室の授業は点在する鎮守の杜での分散授業に変わり、小学生にも戦争の逼迫が肌で感じられるようになっていきました。
鎮守の杜の野外教室に通う日々が続いていた昭和20年7月9日夜遅く、空襲警報発令から間もなく東の方向の夜空が真っ赤に燃え、地鳴りのような音が連続して聞こえ始めました。私たち母子は、灯火管制で真っ暗な町並みから少しでも離れるために防空頭巾を被り、私は水の入った大きな薬缶を抱えて、はるか遠くに赤々と燃える空を背に夜道を野壷(肥溜め)にはまらないように気を付けながら避難の流れに従っていました。熱気が東から襲ってくる中での必死の逃避行でした。