寄り道 高野素十論
その20
蟇目良雨
久女句集刊行を断固反対する虚子
杉田久女が自らの句集上梓を望んで幾度か上京し虚子に会おうと試みたが、虚子はどうしても会わなかった。
会わなかったばかりでなく虚子に関係の無いところで出版が決まりかけた時、その出版社に無言の圧力をかけて出版社の方から久女に断りが届くことになった。理由は久女句集を発行すると「今後、虚子からの仕事を貰えなくなる」ということであった。抜け目ない虚子のことであるから証拠を残すようなことはしない。出版社に忖度させたのである。
久女が藁にすがる思いで頼った人に水原秋櫻子がいる。秋櫻子は当時「ホトトギス」を離脱して「馬醉木」に拠っていたのだが、秋櫻子は虚子に当てこすって久女句集を刊行させようとしたのではない。久女の高等女子師範学校の同級生に秋櫻子の姉がいたから、その縁で頼られて何とかしてあげたいと思っただけである。
また、徳富蘇峰にも頼ったと言われている。外部の人にとって句集の出版を何故妨害するのか恐らく理解できなかったからであろう。是非、出版させてあげたいと思うのは当然のことだと思われる。
しかし、もし、虚子が次のように考えたらどうであろうか。
還暦になった虚子はそれまでにも軽い脳梗塞など患っていた。幼い女の子を抱えた娘の立子のこれからの生活の安定を考える上で俳誌「玉藻」を昭和五年に発行し、「玉藻」にはホトトギスの有力な同人会員を送り込んでいた。「玉藻」の番頭格は高野素十であった。素十は昭和七年にドイツへ医学研修の二年間の留学に赴いたが、殆ど毎号ドイツから作品と文章を「玉藻」に送り届けたのであった。
前にも書いたが久女は二十九歳ですでに
花衣脱ぐやまつはる紐いろ〳〵
を発表し、三十二歳では
足袋つぐやノラともならず教師妻
を、四十歳の昭和五年の年末に応募した句
谺して山ほととぎすほしいまま
が、新日本名勝俳句の帝国風景院賞二十句の内に選ばれ、しかも金賞を受賞した。更に
橡の実のつぶて颪や豊前坊
が銀賞に選ばれるというダブル受賞の栄誉に浴し、女流俳句作家として不動の地位を築きあげていたのである。