東京ふうが58号(令和元年夏季号)

「旅と俳句」
平成二〇年 シルクロードの旅 天山北路

石川 英子

Ⅰ 西 安
1 – はじめに
2 – 出 発
3 – 西安市初日
4 – 西安近郊見学
5 – 秦始皇帝陵見学
6 – 九成宮醴泉銘の大碑
7 – 西安の俳句
Ⅱ 敦 煌
1 – 敦煌空港着 第一日目
2 – 莫高窟 鳴沙山 月牙泉雷音寺 第二日目
3 – 沙州市場
4 – 玉門関 陽関他の観光 第三日目
5 – 敦煌最後の晩餐
6 – 白馬塔他 第四日目
7 – 再見敦煌 柳園から列車の旅
8 – ウルムチ方面行寝台硬臥列車の旅
9 – 敦煌の俳句
Ⅲ 新彊ウイグル自治区
1 – ウルムチ駅の喧騒他 ウルムチ第日目 2月18日(月)曇
2 – 吐魯番観光 2月19日(火)快晴
3 – ウルムチ第三日目 2月20日(水)晴れ
4 – 再びの西安
5 – 帰国の日 2月21日(木)快晴
6 – 旅を振り返って

Ⅱ 敦 煌

1・敦煌空港着 第一日目

敦煌第一日目 2月14日 4時半着(三泊四日)

簡単な手続きでパスポートとチケットを見せ、敦煌空港を出ると正人が頼んでおいた二人の男が迎えにきていた。ホテルの従業員かと思ったが、ホテルを予約した客を聞いて個人タクシーの観光案内をしている者達だった。

重い荷物を後ろのトランクに積んでもらって、フォルクスワーゲンの新車は走り出すと直ぐ、助手席の営業担当者が敦煌でのスケジュールを聞いて来た。

「明日は莫高窟と鳴沙山で近場であるから200元、明後日の玉門関と陽関等は遠くて丸一日がかりなので700元、二日間で900元ではいかがですか?」
鳴沙山など貸し自転車で充分だが、迎えを受けているしセットで契約した。転んでも只では起きない。2~30分の空港に無料でのお迎えなど何と言う事は無い。零下17度の客の少ない時に二日間みっちり稼ぐのに必死である。明朝8時半に迎えに来て9時の出発の約束をして帰っていった。

莫高賓館は敦煌市の中央にあるシルクロードの出発点に近い。古いが角地に建つ円形ホテルだ。ホテルのグレードを示す星の数が不詳なので正人が私を案じていた。
カウンター女性が「今停電しているから現金にして下さい。」
部屋は四階なのでボーイがどこからともなく現れて鞄を持ってくれた。カートは?エレベーターが無い。
「ご案内します。」と一言いってどんどん螺旋階段を登って行く。
ペンキでも塗っているのかカーテン状の布が敷いてある階段は誠に歩きにくく、二階にたどり着いて2~3歩あるくと三階への階段。鞄は持ってもらったが、衣類のぎっしり詰まった36リットルザックを背負って登る。とても二人の若者にはかなわない。
正人「オーイ大丈夫かあ?」
私 「オーイ、ヒーヒーヒー。」
正人がボーイに何か言う。三階で二人が待っていてザックを背負ってくれた。
正人が、「母はもう70歳だから早くは登れないよ。」とボーイに言ったのだそうだ。(全く頭に来るョ!)
そんなこんなで四階のツインルームに案内され、一通り説明してボーイは下りて行った。

ウルムチ行きの切符を買う

旅の荷を解き備え付けのお茶を飲んで一休みすると、正人は、今来たばかりの空港の近くにある敦煌駅へ「烏魯木斉」行きの切符を買いに行くと言う。私はホテルで休んでいて良いと言われたが、言葉不安内の為、心細いのでついて行った。空港から来る時に買って来れば良いのにと思ったが、ここで怒らせてはいけないと、引っ込めた。沙州と呼ばれた敦煌は広大な砂漠に囲まれている。今は甘粛省の西端に位置するオアシス都市で東西の人々が行き交い、彼らがもたらす文化が花開いたシルクロードの交差点だ。

最近までは柳園村からのバスや車だけが入っていたが、数年前に先ず砂漠の中に飛行場が出来た。そしてつい最近西安―ウルムチ間を走る列車の玉門鎮駅から敦煌にレールを敷いて支線の駅が出来た。街灯も信号も何も無い街外れの飛行場から少し離れた所に駅舎はあった。

物売りの婆さんと食堂が一軒あったが、駅の中はがらんとしていて駅員も居なければ、改札も閉めきっている。単線のレールは確かに来ていたが、蘭州方向の列車しか入線して来ない。冬場は客が少なく、ウルムチ行きの列車は来ないので、バスターミナルから柳園村の駅に出るか、タクシーで柳園駅まで切符を買いに行った方が良いと言う。間もなく日が暮れるので駅まで女の子を迎えに来ていたタクシーに正人が交渉した。女の子を自宅まで届けてから行ってくれると言う。

7時出発、女の子をマンションに届けて走り出すと間もなく運転手の友人から電話が入り、運転手は「夜も仕事だ、一緒に行ってくれるか?」と誘った。男の家は日干し煉瓦の四角い家で、入口に布団のドアの下がった一軒の家の前で待っていた。後でこの男(運転手の友人)にとても助けられる事になる。

周知の如く敦煌の街は、ホータンの玉や中国のシルクや文化を運ぶ駱駝の商隊に依って出来たオアシス街であるから、見渡す限り地平線の果てまで一本の道が両脇に雪を積んでどこまでも真っ直ぐである。四つ角も信号も街灯も何もないゴビ砂漠の中の一本道をひた走る。単調な事この上なし。夏なら陽炎や蜃気楼は立つだろうが漆黒の砂漠のど真ん中を走るのだから昼中働いた運転手は音楽もかけずにハンドルに寄りかかっていれば、その内柳園の村に着くと言う寸法だが、生身の人間だから居眠りが始まる。

側石にタイヤをこする。私達も運転手の友人も気が気ではない。「日暮れて道なお遠し。」と言う言葉が頭をよぎる。大声で友人が運転手に「ラジオをかけろ」と話しかける。大音響でラジオをかける。助手席の正人が運転手の肩をたたいて起こす。

遙か彼方から灯りが見えて来た。本当にホッとしたが、山の様な荷を積んだトラックが通り過ぎて又漆黒の闇に戻り道は真っ直ぐに続く。そんな時間が二時間以上続いている内、遠くに灯りがちらついて、どうやら柳園村の近くだと思ったら、ガソリンスタンドだった。又闇になって友人が大声で話しかける、向かい側から車のライトを浴びる。点在する灯りが近づいたかと思う内、村の割には大きな駅に着いた。当初の約束通り120元を支払って下車した。

「一路平安(道中ご無事で)」と運転手の声。

何としてでも西安から来るウルムチ行きの寝台列車の券を手に入れなければ、11時間余り通路の腰掛けに揺られてウルムチまで行く事になってしまう。荷物の検査を受けて窓口で切符を申し込むと、奇跡的に下段と中段の寝台券が取れた。硬臥・硬座の列車であるが一人122元(1830円)は安い。とにかく春節の大混雑の中で良くぞ手に入った。128キロを走って買いに来た甲斐があった。
正人「駅前食堂で鍋料理でも喰って腹を暖めよう。」
24時間営業の駅の為、やはり24時間体制で営業している。客の混んでいそうな店でピリ辛の包子入りマトン鍋とワンタンを作ってもらった。大分待たされたが旨かった。「空きっ腹はなによりのスパイス。」は言い得て妙。

満腹になって駅前でタクシーを探す、10時半。相客を探していた若者を荷物ごとおろして、正人と運転手が何やら話していると思ったらどうやらまとまったらしく、いきなり乗せられて敦煌まで行ってもらう事になった。運転手は一人だが、夜勤のみの男でがっしりしていてフォルクスワーゲン(ガソリン車)が新しい。
運転手「敦煌へ200元でどうです?128キロある。」
正人 「じょうだんじゃない!今来た車は120元だ!敦煌なら帰りの客は必ずある。」
結局運転手が折れて「莫高賓館」まで一時間半で走って160元で話は決まった。寝ていても起きていても128キロの道は街灯一本ない事がわかったので、帰りは安心してぐっすり寝てしまい、止まった処はまぎれもなくマイホテル。

来たと思ったら直ぐ外出して行って深夜12時に帰還した客を受付嬢はどう思ったろう。西安―嘉峪関―敦煌空港―ホテル―敦煌駅―柳園駅、そしてまた莫高賓館へと本当に長い日だった。ベッドにひっくり返ると目眩を感じたのでシャワーを浴びずに早々に寝てしまう。明朝は早いので準備をしてから正人に1000元渡した。


(つづきは本誌をご覧ください。)