東京ふうが60号(令和2年冬季・新年号)

第21回「遊ホーッ」

洒落斎

① おもてなし

梅棹忠雄が「ヤク島の生態」という論文を発表してからまもなく、柳田国男から葉書が届き、「この方法は日本民族学のいまだかってこころみざるところである」とあった。そして、一度あそびに来いと記されていた。そこで東京成城の柳田邸をたずねたそうで、その話をある知人に話した。すると知人は「お茶がでたか」という。お茶はもちろんお菓子もでたというと、その人は「君はよっぽど評価されたんだ」といった。

京都大学の一部の学者のあいだで、柳田邸でお茶を出されるのは優遇された証しと伝えられていたようである。梅棹と親しかった桑原武夫も、晩年のエッセイ「柳田さんと私」のなかでつぎのようなことを回想している。

三十代のころ柳田邸で煎茶をいただいて、わりあいゆっくり話をして帰った。そうしたら柳田さんを紹介してくれた石黒忠篤さんが、「きみは、お茶をだしてもらったそうじゃないか」という。「ええ、いただきましたよ」と、お茶ぐらいだすのはあたりまえだと思っていたから、そう答えると「きみのような若造にお茶を出し、またおいでと言われたということは、優遇されたんだよ」と、おおいにありがたがらないといけないような言葉でした。以上は伊藤幹治著の『柳田国男と梅棹忠夫』に記載されていた内容です。

梅棹忠夫は桑原武夫よりもお菓子が出たぶんだけ優遇されたことになると思えるが、まったくお誘いもない人、お誘いがあってもお茶の出ない人もいるので、4段階に分けられることになる。

上記の話は柳田国男の相手に対するおもてなし具合により、柳田国男の心が読めるということですが、おもてなしについては、以前「遊ホーッ101」に記した福沢諭吉の逸話が、意味は異なりますが多少似たところもあるので再掲します。

それは会田雄次著の『敗者の条件』の前書きに記されている会田雄次が父親から聞いた福沢諭吉の逸話です。

「自宅を訪問する学生があると、福沢先生は金持ちの家の生徒にはお茶とお菓子を出し、貧乏な家の子にはお茶しか出さなかった。そしてこう説明された。
『新しい世の中ではこのように金持ちは大切にされる。それが口惜しければ金持ちになれ』と。」

福沢諭吉は世襲的な身分制を否定し、「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり、高人となるが、無学の者は下人となって、この現実の世には貧富貴賤が生ずる」と、『学問のすすめ』に記している。実に先見の明のある言葉だと思います。

おもてなしにお茶もなし、そしてお茶が出たり、更にお菓子も出たりすることで差をつけるのはありがちのことだと思いますが、柳田国男のおもてなし具合による評価判断を京都大学の一部の学者のあいだで噂しあっていたとは如何にも京都大学らしい。


(つづきは本誌をご覧ください。)