曾良を尋ねて(43)
乾佐知子
126 長島松平家断絶に関する一考察 Ⅰ
元禄15年(1702)の秋、念願の芭蕉の墓参を済ませた曾良は、近江を経て関ヶ原を抜け、大垣から一路大智院のある長島へと急いだ。しかしこの時、長島では大変な事件が起きていた。 8月15日、藩主松平忠充の乱心により、幕府から領地没収の沙汰が下されていたのである。この一件に関しては地元の曾良研究家である岡本耕治氏の『曾良・長島日記』に詳しいのでそちらから 引用したい。
長島町誌によれば、元禄15年8月15日、松平忠充は重役の家臣三人を切腹せしめ、その子四人の死刑を行いしにより、親族等その故をたずねしところ、全く狂気の致すところなりしかば、その事を言上に及ぶ。21日この事により領域を没収せらる。と記されている。この異常な事件に関して岡本氏は、さらに8月14日、つまりその前日に長島城内において、松平康元(忠充の曾祖父)の百年忌法要が営まれていることから、その際に何らかの不手際があり、それが関係しているのではないか、と推測しておられる。しかし残念ながらこれだけの大事件にも関わらず、その真相は全く判っていない。
この乱によって故なく切腹させられたのは、家老の藤田八郎左衛門雅純、用人の大岡九左衛門、留守居役の朱雀平助の三人とその子供が三人、そして一人が閉門ということになっている。
なかでも藤田八郎左衛門は延宝9年(1681)留守居役のまま長島藩の家老となり元禄15年までの21年の間その職にあった。参勤交替で藩主不在の留守を守っており、長島藩の重鎮で松平良尚、忠充の二代にわたって仕えていた。
曾良日記にもその名は再三出て来ており、芭蕉や曾良とも親交が深かった。「蘭夕」という俳号を持ち、元禄2年9月8日に芭蕉を迎えて大智院で催された俳諧興行に座していたことは、我々の記憶にも新しい。
藤田八郎左衛門の死を知った曾良の衝撃は計り知れないものだったろう。恐らく松平家没収の報はすでに大垣にも伝わっていただろうから、藩士に友人知己の多い曾良は、その安否を心配しつつ夢中で駆けつけたであろう。しかしこれ程の悲惨な現実が待っていようとは、曾良の無念の心中を察すると胸が痛い。幕府は8月の松平家除封決定の後、すでに次の藩主を決めていて9月1日、新藩主増山正彌が常陸国下館城から移封されることはなっていた。
従って八月中旬から九月いっぱいにかけての長島は、藩主交代で大混乱を呈したと思われる。禄を失い離散する松平家家臣は悲惨である。丁度その前年の元禄14年には江戸で赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあり、その前年の播州赤穂の浅野 家断絶の騒ぎをみれば、松平家においてもほぼそれに近い状況であったものと思われる。藩の記録は四散し、当時の松平家の分限帳(家格封禄表)も残っていないという。(岡本耕治著『曾良・長島日記』)