東京ふうが79号(令和6年秋季号)

歳時記のご先祖様 13

本郷民男

─ 王権に属した歳時 ─

〇 文明は飛鳥から

 今回から、日本に入ります。美術史家の大橋一章氏は、「飛鳥の文明開化」という表現で、飛鳥寺の創建を称えました。仏教が日本へ伝来したのが『日本書紀』では552年ですが、『元興寺縁起』の538年が正しいとどこかで聞かれたでしょう。『元興寺縁起』は、この飛鳥寺の創建を伝える文献です。飛鳥寺は588年頃に発願され、百済から建築や金属加工の師匠を招き、609年頃に完成したと見られています。飛鳥のほぼ中央に、三棟の金堂、法隆寺の五重塔より少しこぶりな五重塔などが並び、中金堂には丈六の金銅仏が安坐していました。瓦も礎石も仏像もない国に、一足飛びで文明の精華が出現しました。
 1981年に飛鳥寺西北の水落みずおち遺跡から、漏刻ろうこく(水時計)の遺構が発見されました。『日本書紀』660年(斉明天皇6年)に、皇太子(後の天智天皇)が漏刻を作って人民に時を知らせたとあり、その遺構と判断されます。二十年ばかり前に唐の呂才が四段式の漏刻を考案し、その構造がわかっています。水落遺跡の遺構から四段式の漏刻を復元すると、見事に一致しました。水落遺跡を発掘した木下正史氏は、時刻を正確に測定して知らしめて人を服従させることは、天と人を支配する王権に不可欠なことであるとされています。
 水落遺跡は単なる水時計ではなく、多くの建物や施設から構成されています。『日本書紀』には飛鳥寺西のつきの木の下で、種子島や蝦夷といった、遠方の使節をもてなしたといった記述が出てきます。槻は、ケヤキです。ここに、塔のように高い須弥山しゅみせんを築いた記録もあります。中大兄皇子なかのおほえのわうじ等が蘇我そが本家を滅ぼした直後に、槻の木の下に豪族を集めて、服属を誓わせました。大友皇子と大海人おおあまの皇子が争った壬申じんしんの乱では、大友側が槻の木の下に陣を構えましたが、大海人側が撃破しました。水落遺跡を含む飛鳥寺西方は、天地人を支配する重要な拠点でした。飛鳥寺は蘇我氏が建立しましたが、蘇我本家が滅んでからは、官寺となりました。飛鳥寺五重塔・漏刻・槻の木・須弥山は、人と天との接点でした。

〇 暦も飛鳥時代から

 歳時記は暦によって運用されます。漏刻も、暦あっての時計です。553年(欽明14年)6月に、百済に対して暦博士などを交代させて欲しいと要請しました。翌年の2月に、暦博士固徳王保孫らが、派遣されて来ました。その前から輪番制で暦博士が来て、その時に暦を持って来てくれたはずです。602年(推古10年)には、百済僧の観勒が暦や天文地理などの本をもたらしたので、書生を選んでそれぞれの分野を学ばせました。これらから、暦は百済に依存し、日本人だけでは運用も覚束ない状況だったでしょう。『政治要略』には、小治田をはりだ朝十二年の正月から暦日(暦)の使用を開始したとあります。推古11年に、小墾田宮をはりだのみやへ移ったとあるので、小治田朝とは推古朝で、12年は604年です。飛鳥の宮殿はなかなか特定できないのですが、1987年にそれまで雷丘東方遺跡と呼ばれていた所から、「小治田宮」と書かれた墨書土器がたくさん出土して、場所の特定ができました。飛鳥寺がだいたい完成した頃に、ハードもソフトも基礎ができました。
 暦は消耗品のため現物の最古は、水落遺跡のすぐ北の石上遺跡から出土した689年(持統3年)の木簡です。紙が貴重なので、初期の暦は木簡だったとみられます。紙の暦は奈良時代のものが、各地で発見されています。みな漆紙文書です。使用済みの暦を漆容器の蓋に再利用したのが、漆の保存力のおかげで残ったということです。


(つづきは本誌をご覧ください。)