季刊俳誌東京ふうが 通巻42号 平成27年夏季号

東京ふうが42号(平成27年夏季号)

寄り道 高野素十論

その十三

蟇目良雨

「寄り道 高野素十論 その十二」に「まはぎ」に掲載されていた中田みづほと濱口今夜の「句修業漫談」の第一回目を掲載して読んでみると、そこには水原秋櫻子を怒らせるような内容は見当たらず虚子の教えを忠実に守ることが俳句上達の方法だと自分の経験から述べている。これから句修業漫談の中身を掲載順に閲してゆくが医学部教授にあるみづほや今夜が喧嘩を売るようなことは考えられず、のちに何故、秋櫻子が「自然の真と文芸上の真」などの論を書かなければならないかが依然不明のままである。
今回の「俳句の廣さ其他」では、虚子のやり方からそれている秋櫻子を取り上げているがそれでもそれは表題にある通り「俳句の廣さ」の問題として議論して秋櫻子を貶すために取り上げていることでないことは読めば了解されるだろう。
俳人が喧嘩をする理由は何が多いのだろうか。主義主張が違えば会を出るか自分たちで別な結社を作ればよい。このとき揉める理由に会員の引き抜きが絡む。それは会員が減れば経営に支障を来すことがあるからである。昭和四年、五年、六年の時点において原因として考えれるのは、秋櫻子が「破魔弓」を発展的に解消して「馬醉木」に拠って立つために仕掛けたという考えもあるかもしれないが、まだ理由としては希薄である。
秋櫻子が著書『高濱虚子』で述べるところによっても、虚子のやり方に合わなくなる秋櫻子の苛立ちを書いているところもあるが、虚子や長年の親友の素十に、正式に別れを述べる個所はない。つまり辞めよう、辞めようとする意志を書いているが虚子に向かって辞めるとはどこにも書いていないのが不思議である。
「句修業漫談」は秋櫻子の親友である中田みづほと濱口今夜の俳句に向かう態度を漫談として記した記事である。俳誌[まはぎ]に連載され、秋櫻子もとっくに読んでいて掲載期間に何の反応も無かったのであるが、虚子がこの文章を「ホトトギス」の新入会員に俳句の基本を学ばせる上で有益と考えたところから一年遅れで「ホトトギス」に再掲したのである。そして四回に亘る掲載が済んでしばらくした昭和6年10月に突然として「馬醉木」誌上に「自然の真と文芸上の真」なる論文を掲載し虚子陣営に論争を仕掛けたということになっている。
一般論で言えば、無二の親友であった秋櫻子、素十、みづほ、今夜の間に波風が立つとすればそれは大変特殊な原因によるものであろう。例えば同時期に俳句を始めた二人がいたとして、一人だけがどんどん上手くなって取り立てられる機会が増えて、もう一人が妬むという図式は無いわけではない。こんな状況を前記四人に当てはめるとしたら俳句の経験は中田みづほが一番上(長谷川零余子指導の帝大俳句会から俳句を始めていた。東大俳句会は後にみづほと秋櫻子が再興)、秋櫻子は短歌から俳句へ移ってきたがみづほより後で素十より先輩。今夜は「その十二」で大正12年から俳句を始めたと言っているから素十と同期生と考えてよいが素十ほど俳句に打ち込まなかったので俳句の経験からは一番後輩といえる。
年齢に関しては水原秋櫻子が一番上(一浪していた)。四人全員東京帝大医学部卒。みづほと今夜は同時に新潟医科大学へ医学部助教授として早くから赴任)、素十は俳句をやりたくてぶらぶらしているうちに就職先が無くなり、みづほの斡旋で新潟医科大学法医学教室の助教授として拾われた。
みづほ、今夜、素十はドイツ留学の後に教授に就任。秋櫻子は家業の産婦人科をついで留学経験なし。昭和大学医学部創設に協力し同大の教授に就任したこともある。全員医学博士の学位を持つ。経済的には産婦人科医院と産婆學校を経営していた秋櫻子がダントツによかった。それは石田波郷が松山から上京したものを丸抱えしたことや加藤楸邨への援助の仕方などからも想像できるだろう。こんな環境の中で起こった「自然の真と文芸上の真」論争なのである。
今回は「ホトトギス」に掲載された第二回目の文章のうち「俳句の廣さ其他」を読んでみよう。
先ず、「まはぎ」掲載の「句修業漫談」のうちどれとどれが「ホトトギス」に再掲されたかをもう一度確認しておきたい。
再掲されたということは、虚子にとって都合がよい文章が含まれていたと言えるであろう。


(つづきは本誌をご覧ください。)