季刊俳誌東京ふうが 通巻42号 平成27年夏季号

東京ふうが42号(平成27年夏季号)

曾良を尋ねて

乾佐知子

71『奥の細道』出発日の謎について Ⅰ

芭蕉がみちのくへ旅立った元禄2年の3月27日という日についてはさまざまな説がある。今回はこの出立日の謎について先人達の諸説を参考に検証してゆきたい。
「奥の細道」の出立日は芭蕉自身が文中の冒頭〝弥生も末の7日〟と明確に記していることから、従来より4月27日ということで一致していた。
しかし昭和18年に曾良の「隨行日記」が発見されたことにより、一気に謎が深まったのである。なぜならこの日記の書き出しが巳三月廿日、同出、深川出船。巳の下尅千住に揚る。
一 廿七日夜 かすかべに泊る。江戸より九里余。
このように記されていたからである。
巳の年(元禄二年)の三月廿日に芭蕉先生と一緒に出発。深川を舟で出た。巳の下刻(午前10時半頃)に千住に上陸する。
一 27日の夜に粕壁に泊まる。江戸からは9里(約36キロ)余り。
『芭蕉めざめる』の著者光田和伸氏によれば〈これが事実であれば20日に二人で出発して10時半頃千住に上陸した、ということになる。ここまでは問題ない。しかし次に「一つ」として書き改められ、27日夜に粕壁に泊まっている。千住から粕壁までは歩いて40キロほどで当時の男の足ならゆっくり歩いても8時間程度で楽に着く距離である。どう考えても7日もかかるはずがない〉と分析している。
では一体この1週間の謎をどのように説明したらよいのか。その為にさまざまな説が発表されている。
初めは4年以上経って『奥の細道』を書き始めた芭蕉が勘違いをして20日を27日と書いてしまったのであろう、という説が有力であった。
ところが近年、研究者によって二通の芭蕉の書簡が発見されたことにより一気に解決したのである。
その書簡とは23日付で岐阜の門人の落悟と李晨に宛てたもので、そこには3月26日頃に出発すると記されていたのである。この手紙の内容が本当だとすれば、芭蕉は23日にはまだ江戸にいたことになる。結局この手紙の存在が決め手となり、学界は一気に27日出発という芭蕉の説が正しいということになり、曾良の〝廿日出発説〟は間違いであったと断定された。


(つづきは本誌をご覧ください。)