東京ふうが48号/平成29年冬季新年号表紙絵「良多先生追悼号」

東京ふうが48号(平成28年冬季・新年号)

良多先生を送る言葉

蟇目良雨

「東京ふうが」顧問、俳人協会評議員、「春耕」顧問であられた高木良多先生が平成29年2月12日急性心不全で亡くなった。享年93歳だった。死の数日前に「東京ふうが48号」の原稿の読み方をお電話でお尋ねしたときのお元気な声を思うとまさかとばかり思うのであった。

訃報は、ちょうど「春耕新年俳句大会」が高幡不動で行われていた最中で、午後の懇親会の席上に私の妻から携帯電話に知らせが入った。主宰以下、幹部数氏に報告し他の諸氏に報告したのは、懇親会が終り二次会の高幡駅そばの「増田屋」の席上であった。勿論みなさん驚かれたが、「あの良多先生が、あの良多先生が」と追悼の言葉が満ちた席の様子を良多先生にお伝えしたかった。

その席上で早速、葬儀の生花を提供してくださる朝妻 力さんに大感謝しつつ帰宅して、良多先生のご自宅にお電話し通夜、告別式の通知を俳友に流した。

春耕事務局長の柚口 満氏も必死になって連絡網を頼って連絡してくれた。お蔭で通夜。告別式とも多くの仲間が駆けつけてくれて賑やかにお見送りすることが出来たと思う。

先生は大正12年6月10日、千葉県佐原に生を享け明治大学で学び税理士を業とした。昭和43年皆川盤水に誘われ創刊直後の「春耕」に参加、盤水の片腕として「春耕」発展に貢献。同時に「風」沢木欣一にも「徹底写生」を学んだ。「風」では終刊まで会計を担当し経営を支える。

盤水先生との出会いは盤水先生がゴルフ場開発に関係した時の税務を担当したことからと仄聞していたが、平成29年2月24日に良多先生の税務事務所に勤務していた岩崎建治氏と雑談中に、昭和42年に岩崎氏が高木事務所に入所した時に、「ゴルフ場開発」という会社を盤水先生が役員として参加して立ち上げて、これに良多先生も関係したことが分かった。昭和43年とは「春耕」が発足したばかりで名前も「春光」と名乗っていた時のことである。
ここに「春耕」創刊当時を知る関係者が現れたことを不思議な縁とおもうのであった。良多先生と私(良雨)の関係も税務を通じてであり、こちらも不思議な繫がりがあると思うのである。

昭和57年に私の会社(ユーラン社)に大掛かりな税務調査が入り、税務署担当者5名と対応したのが、私と良多先生の二人であった。調査官の質問は私一人に向けられ、その間良多先生は静かに時間の過ぎるのを待たれるのであったが、私に俳句を勧めたのはまさにこの調査の直後であった。当時を思うに良多先生は税務調査の間に机の下で五七五と指を折って俳句を案じていたのではなかったのかと思うのである。

お茶の水句会はこうして昭和57年に私の経営する料理店「割烹ちよだ」の座敷で始まった。
「割烹ちよだ」の従業員数名、町会の薬剤師などを会員として始められた句会であるが、初期から野田晶子さんが参加なされ句会報をまとめていただいた。

まもなく日本はバブルに湧き、お茶の水句会の吟行会は屋形舟や鯊舟などを行ったが費用の半分はユーラン社で負担したことなど今では考えられない良き時代であった。

良多先生は佐原の津宮のご出身で、「割烹ちよだ」の大女将をしていた私の義母が根掘り葉掘り聞き出したところによると津宮の親分の家に生まれたと聞いたが本当かどうかわからない。しかし、ふるさと佐原に対する愛着は一入であり、時間を見つけては佐原の名所旧跡を訪ねて「春耕」に連載し一冊にまとめた物が『水郷の風土』である。

また、与謝蕪村がお気に入りで、結城下妻へ若き日の蕪村の姿を追い求めて一冊にまとめたものが『蕪村遍歴』である。
二〇才ころ、京から江戸に下ってきた蕪村の生活を支えたのが初代夜半亭早野宋阿の門弟の兄弟子たちで、彼らは結城下館の木綿問屋、藍問屋の旦那衆であった。10年ほどで早野宋阿が没して生活に困った蕪村を27歳から37歳までの間金銭的にも面倒を見たことにより、蕪村は結城下館に於いて書の研鑽、経典の研究、「芥子園画伝」などで南画の勉強などを心ゆくまですることが出来、その後京都に戻って一流の絵師になり二代目夜半亭を継いで俳諧の指南を行い高井几董などの弟子を育て上げた下地を築いたのが結城下館の若き蕪村の遍歴の結果であると導くことが出来た。

私が車を運転して同行したり、仲間を募ってマイクロバス一台で吟行を楽しんだり、先生も私もよく時間が取れたものである。

晩年、先生の教えに報いるために晩年「東京ふうが」を発刊するお手伝いをし、今は私が発行人になっている。

先生は『雪解雫』『八千草原』『佐原』『冬曙』『櫻狩』の句集5冊、『蕪村遍歴』『蕪村私観』『水郷の風土』『旅と俳句』『俳人沢木欣一の行脚風景』など研究書を刊行された。税理士業を続けながらの研究に首が下がるばかりである。

死の直前に書いた文章に「写生プラス抒情では俳句が短歌的になる。徹底写生でゆくべきだ」と警告を発した。句業五〇年の遺言として胸に刻みたい。この文章は本追悼号に掲載してあるので一読願いたい。

客観写生の代表句として次の句を揚げ擱筆したい。

<蝮裂く十一月の山水に 良多>

御戒名は『慈鑑良信居士』墓地は三鷹市新川2-1-17「威徳院」

良多先生安らかにお眠りください。   合掌