東京ふうが59号(令和元年秋季号)

寄り道高野素十論 29

蟇目良雨

今回は同じ東大医学部出身の高野素十と水原秋桜子を医者俳人で現代に生きる細谷喨々氏がどのように見ているに触れてみる。

私達は俳人を職業の区別なく見ているつもりであるがそれはその職業に深く入り込んで知っているからでなく、殆ど知らないから同列に置いて見ているだけではないだろうか。

俳人の職業を知っておれば句の鑑賞に深みが出てくるというものである。現役の医師の細谷氏が「三人の医師俳人」という題で講演した内容を読む、医師仲間の間に感じ取れる微妙なニュアンスがそれぞれあることに気が付く。

後で出てくる傍線を引いた
①の個所を読むと、素十と立子が付き合っていたことが好意的に書かれているが、当時のそれぞれの立場、すなわち立子は星野吉人の人妻(大正14年からずっと)であり、素十は独身の一医学研究者であったことを考えると、細谷氏にこういう内容の話が伝わっているところから医師の倫理観としてはごく当たり前に許される男女関係の一つとして描かれているのではないだろうか。

また、②の個所の秋桜子のナイター好きうんぬんに

こんなものを作って、仲間内ではやっぱり産婦人科医かなという感じがするんです。

と感じている個所がある。同じ医師でも産婦人科医と他の医師の感覚のちがいというものがあるとすると、これまでは清濁併せ飲むのが素十であって、秋桜子は謹厳居士というイメージが少し違ってくる気がする。

こんなことを感じさせてくれる文章なので是非一読していただきたい

ナイターに関しては終戦まであった水原医院・水原産婆学校は水道橋の神保町よりにあり、水道橋の後楽園球場は目と鼻の先にあった関係でしばしば観戦に訪れたところで、ナイターの一文は私たちには知る事の出来ないニュアンスが込められていそうだ。

 ─ 細谷喨々の素十観 ─

以下は医師で俳人である細谷喨々氏が所属結社「一葦」に掲載した文章である。2019年新年合同句会講演録「いのちと俳句」と題して3/4号に載せてある中から抜粋してみた。細谷氏は医師俳人の仲間の中で秋桜子と素十のことを私たちが知るよりもより詳しく医者の目を通して正確に見ていたことを書いている。

細谷氏は1948年生まれなので秋桜子や素十に直接見えたことはない様子だが、医者仲間の感覚として面白い見方があることを書いている。

この文章「三人の医師俳人」の前に飯田蛇笏や龍太のことが書いてあり、「三人の医師俳人」の後に石川桂郎のことが書いてある。文中の傍線は私が分かりやすく引いたものである。

「三人の医師俳人」

いのちって元々生きているということ、生きている人が詠むのが俳句なわけで、亡くなっていく途中で詠まれる俳句というのも、いのちを感じさせる俳句っていうのが一杯あるんですね。いのちに一番近い所で私たち医師というのは働いているわけで、「うたをよむという」一枚目の一番左側にあるのは、毎日新聞だったと思いますけど、頼まれて書いたものです。新潟大学の小児科学教室の創立百年に呼ばれて行った時に、「新潟大学というのは私が大事にしている俳句ととても強い繋がりがあるんだ」という話をしたんですね。
登場する中田みづほは、明治二十六年島根県津和野生まれ.みづほに続いて翌年、水原秋桜子が東京、高野素十が茨城で生まれます。三人は同時期に東京帝国大学医学部に入学し、みづほ、秋桜子、素十の順番で俳句にのめり込み、虚子に師事するんですけれど、卒業後がそれぞれ、みづほは外科、秋桜子は産婦人科、素十は法医学を専攻します。後にみづほと素十は新潟大学、秋桜子は昭和医大の教授になるんですけど、三人が関与した大事件というのがあるんだという話をしました。
虚子主宰の「ホトトギス」を秋桜子が去るきっかけとなった「秋桜子と素十」論争の端緒の一つが、みづほ指導句誌「まはぎ」。
みづほは日本の最初の脳外科を作った人なんですよ。だからすごく優秀な外科の医者だったんですけど、素十さんも茨城の出でいらして、① 星野立子さんが素十ととても仲がよかった。一緒になるんじゃないかと思われていたのに、裂かれて、でもひょっとしたらという話がまだまだ残っているくらい素十と立子は仲が良かった。
素十が〈甘草の芽のとびとびのひとならび〉という句を作って、「こういう句はつまらない」と秋桜子が言ったわけですね。それを秋桜子のお友達のみづほが自分の俳誌の中で「つまらなくなんかない。あんたの方がつまらない」というようなことを言って、別れてしまったということがあるんですけど。
思いもかけぬ俳壇の大騒ぎを外に、みづほはわが国の脳外科学の先駆者として本業に精進して文化功労賞を受けたということで、この人達の句が、さっき言ったように外科、産婦人科、法医学。法医学者の素十が細かく〈甘草の芽のとびとびのひとならび〉みたいな句を作って、脳外科で脳に出血を起こしたような人を何とか出来ないかということで一生懸命やったみづほは、こういう句を作って。秋桜子は産婦人科なんですけど、産婦人科を一生懸命やらずに早い時期に俳人になって。でも綺麗な人が好きだったんだと思います。非常に雅な句を作った。


(つづきは本誌をご覧ください。)