東京ふうが59号(令和元年秋季号)

「旅と俳句」
平成二〇年 シルクロードの旅 天山北路

石川 英子

Ⅰ 西 安
1 – はじめに
2 – 出 発
3 – 西安市初日
4 – 西安近郊見学
5 – 秦始皇帝陵見学
6 – 九成宮醴泉銘の大碑
7 – 西安の俳句
Ⅱ 敦 煌
1 – 敦煌空港着 第一日目
2 – 莫高窟 鳴沙山 月牙泉雷音寺 第二日目
3 – 沙州市場
4 – 玉門関 陽関他の観光 第三日目
5 – 敦煌最後の晩餐
6 – 白馬塔他 第四日目
7 – 再見敦煌 柳園から列車の旅
8 – ウルムチ方面行寝台硬臥列車の旅
9 – 敦煌の俳句
Ⅲ 新彊ウイグル自治区
1 – ウルムチ駅の喧騒他 ウルムチ第日目 2月18日(月)曇
2 – 吐魯番観光 2月19日(火)快晴
3 – ウルムチ第三日目 2月20日(水)晴れ
4 – 再びの西安
5 – 帰国の日 2月21日(木)快晴
6 – 旅を振り返って

Ⅲ 新彊ウイグル自治区

1・ウルムチ駅の喧騒他
ウルムチ第一日目 2月18日(月)曇

真っ暗な朝7時18分、ウルムチ駅は列車から吐き出された春節帰りの人々で溢れ、タクシー乗り場はどこからどこ迄なのか、ものすごい喧騒の波と化している。一回三角のトイレを借りたが、ホテルのチェックインには早過ぎるので食堂を探して荷物を預けた。

初老の男性が大釜で粟の粥を煮て商っていて、調味料としてキャベツと人参の漬け物の千切りを五センチ位の皿に盛ったのが付いて来た。

4年前、はじめて北京駅に着いた朝の雪の中で啜った白粥を思いだした。屋根の下で食べられるだけましだが、細い箸には何もひっかからないので丼を持ってすすり込むとあまり熱くもない粥は5分とかからずに食べ終わってしまった。荷物を取ってとにかくタクシーでホテルに行く事にした。一旦少なくなりかけた人波へ、武漢からの長距離列車が到着して又混み合う。

春節後の民族大移動がこれ程の騒ぎとは見当も付かなかった。しばらく場所を変えながら車のつかまえ方を見ていると、ただ待っていても仕方がない事がわかった。空車を見つけたら誰よりも早く、人が乗る前に自分も走りながら走行中の車のドアを開けて大声を出す事である。全く命がけだ。正人はそこへ行くと頭の天辺から声を出すのは得意である。20分位かけてやっと一台つかまえてトランクに鞄とザックを放り込んで出発した。車はたった20分程で四ツ星ホテルの新彊大酒店に到着した。ホテルは快く夜明け前の客をチェックインさせてくれて、ボーイがカートに荷を積んで18階18号室に案内してくれた。

新彊ウイグル自治区のホテル

烏魯木斉のホテルはビジネス街の中心地の20数階建ての立派なビルで、広いシステムバスに洗面所が付いていた。

敦煌の莫高賓館から小さなマイクロバスにすし詰めの2時間余り、そして硬臥の寝台車に11時間以上揺られて来て、敦煌にいた間一度も入浴しなかったので、鞄とザックの荷を広げると早速入浴、洗髪、着替え、そして山ほどの洗濯をして浴室中に干してからゆっくり休憩。

そうするうちにウルムチ時間の太陽が昇って来た。ホテルのロビー正面に時計が数個有り、ウルムチ時間、北京時間、東京時間その他を差している。(東京とは3時間差)

正人も同様で私の後にゆっくり入浴と洗濯を済ませ、少し休憩してから朝食と昼食を兼ねて市場見物に出た。

11時半ホテル前の西天橋バス停より新華南路バス停まで行き、陸橋を渡り二道橋市場に行った。

ウルムチの街の成り立ち

世界で最も内陸に位置する都市ウルムチは、中国最大の面積を持つ新彊ウイグル自治区の首都で、政治、経済、文化の中心地であり、人口は185万人、漢族、ウイグル族、カザフ族、モンゴル族、回族等42の民族が暮らしている。また内陸性乾燥気候のため、気温差、日較差が激しい。夏は日中30度を超えるが、冬場にはマイナス20度まで下がる。一日の温度差も20度位は普通。また年間を通して晴天が多く降水量は少ないが、周囲に万年雪を頂く高峰が連なり、ウルムチ河、頭屯河、柴窩堡河、白楊河の四大水系など雪解水を水源とする河川が多く乾燥地帯ではあるが水不足とは縁がない。

この地域は古くは遊牧民族の支配下にあったが、前漢時代に西域都護府が設置され、初めて中国王朝の支配下に下った。その後も中国王朝の勢力が弱るたびに遊牧民族が領土を奪い返しては独立国家を建国するという歴史が繰り返された。語源はモンゴル語、イラン語、古代サカ語等々諸説がある。この事からも街の歴史の古さを窺い知る事が出来る。

都市としては明代になってモンゴル族オイラート部が築城して清になってから、中国の清朝政府は満州八旗兵をウルムチに駐屯させ新彊支配の中心地とした。対ロシアの軍事拠点として町も発展を遂げたが、清末期から中華人民共和国にかけては、国内の混乱や諸外国の侵入によって混乱を極め、町は一時縮小したが、中華人民共和国建国後は再び中国西域地区の拠点として開発が進められ、飛躍的な発展を遂げた。依ってこれまで見てきた陝西や甘粛のシルクロードとは異なり、高層ビルの建ち並ぶ近代都市であり、白色人種で鼻の高い西洋系、イスラム系の民族が多く住んでいる。そして少数民族の為に中国の「一人っ子政策」は行われておらず、子供が多勢いて品物が豊かであり、ウイグル帽の男性や美しいスカーフの碧眼の女性が厚手のロングコートや毛皮に身をつつんでいる。

二道橋市場

かつて街の二道橋の露地にあったバザールは「二道橋市場」として立派なデパートの中に入り、そこには和田玉の博物館が併設されている。

先ず昼食のレストランを決める。正人がこれぞという店を見つけた。広い道路は両脇も真ん中も小店がいっぱいひしめいていたが、両脇の道路を厨房として使用している店である。羊をさばいて胸骨をはがし、石炭を焚いた窯の上に大きな中華鍋を乗せて、料理がこぼれない様に周りに皿をたてて囲んで、骨付きチャーハンを作る。

鉄のプレートの上では長さ五~六十センチの決闘の剣の様な金串に大きなマトンを刺して香辛料をたっぷり振ったシシカバブー(焼き肉)を焼く。北京の屋台のようなチャチなやつじゃない。

入口に羊の血のしたたる店へ入ると二階へどうぞと案内される。入口とは全く違った一瞬我が目をうたがう程きれいなレストランだった。

碧眼白肌でカラフルなネッカチーフのお嬢さん達のウェイトレスがにっこりと物静かに微笑む。西洋人形が並んでいるようだ。男性は中国語(漢語)、女性はウイグル語(回語)、ウェイトレスでも外国の男性に声を掛けて来たりしない。若いウェイターがメニューと水を持って来た。

特大餃子の蒸し物
マトンと青菜の炒め物
ワンタンスープ
抓飯(道で作っていた20センチ位の骨付きラムのもも肉入り)
シシカバブー5本
ウルムチビール1本  計50元

どれも薄味でやわらかくて美味しかった。

二道橋市場へは屋台の街を通り抜けると円形の駱駝の商隊のモニュメントを中心にしたロータリーを廻って、上野のアメ横がビルに入った様な市場に入る。入口には暖房用の厚い布団が掛けてある。先ず目に付くのが飾りを散りばめ彫刻をしたピカピカのナイフを並べた店で、日本のデパートの一階に宝石店が多い様に、次から次と、どの店も皆アリババと40人の盗賊達が腰に吊している先の曲がって反り返ったナイフ屋である。ナイフ好きの正人が小さくても一本買いたいと言ったが、列車に乗るにも、飛行機に乗るにも危険物の検査がある。薬を飲む水も取り上げられるのだ。正人は以前満州で列車移動の時一度捕まって、ハミ瓜の皮を剥く為に買ったと言ったら、あまり大きいので用途が違うと鉄道警察に注意されたことがある。料理用の中華包丁を買った時は紙も切れない平らな包丁で日本に持ち帰って刃を付けた。しばらく名残惜しそうに見ていたが諦めた。


(つづきは本誌をご覧ください。)