東京ふうが59号(令和元年秋季号)

曾良を尋ねて(42)

乾佐知子

123 芭蕉没後の曾良の動向 Ⅱ

曾良は10月12日の芭蕉の臨終にも、義仲寺の葬儀にも姿を見せなかった。更に22日に江戸で巻かれた追悼歌仙にも出ていない。これは杉風はじめ、野坡、素竜、此筋ら十名の主立った者によって行われた。しかし曾良は〈むせぶとも芦の枯葉の燃しさり〉と追悼吟をたむけたのみであった。

一部の書物にはこの歌仙には曾良が参加したかのように書かれているがそれは違う。前稿でも述べたが、その後の素堂の書簡の日付が26日になっており、その内容から判断すると曾良が「お務めの為、俳人仲間とも疎遠になっている」と記されているからだ。しかも前日の25日には嵐雪と桃隣が大阪に向かったことに「尤ニ奉レ存候」とあり、「私は最近妻を亡くしたので行けませんが、あなたは何故行かないのですか」と不審に思っている様子がありありと分かる。

これは素堂でなくとも聞きたくなろう。一般の武家の厳しい「お務め」でも冠婚葬祭に関しては多少の温情があったと思うが、この場合は少々厳し過ぎるのではないか。きっと曾良にはどうすることも出来ない大きな事情があったに違いない、と考えた私はあれこれ詮索するうちに一つのことに気が付いた。

それは曾良の親代わりともいえる吉川惟足が翌月の11月14日に亡くなっていることである。享年79。12歳の多感な少年期に岩波家の養父母を失った曾良にとって惟足との出会いは運命を決定づけるものであった。

ある資料によれば、曾良が長島に行く前、まだ諏訪にいた十代の時、諏訪神社の社家に招かれて訪れていた吉川惟足と会い、その時師事して神道と和歌を学んだ、という説がある(岡本耕治著「『曾良長島異聞』)。

岩波家からは諏訪大社は目の前にあり、幼少時から朝晩鳴らされる神太鼓やお祭りの喧騒を耳にして育ったはずである。また涼しい境内は少年期の格好の遊び場であっただろう。つまり彼が将来神職となることは自然の流れだったともいえまいか。諏訪の神様はそこで人生の師ともなる吉川惟足と引き合わせた。

地元の研究家矢崎源蔵氏「曾良年譜」によると、延宝3年(1675年)乙卯27歳。5月吉川惟足より神道伝書を受く。河合氏及照授レ與レ之畢云々とあり。とあって、この年曾良が神道習得をした状況を記している。

吉川惟足は、元和2年〜元禄7年(1616〜94)の79歳の天寿を全うするまで曾良の後盾となり支えていた。

従来の日本で神祗道の権威を持っていたのは室町中期以降から白川家を補佐していた吉田家で、社格の決定や儀式作法や神官の資格を与えていた。惟足はこの吉田家に入門し、明暦2年に秘伝を伝授されて吉田神道家の正統後継者になった。

惟足の本名は尼崎屋五郎左衛門という。彼は幼少時、江戸日本橋の商家の養子となるが、事業には合わず鎌倉に隠退。後に吉田神道を学ぶことになる。曾良と似た境遇であることが二人に特別の情をもたらしたといえまいか。


(つづきは本誌をご覧ください。)