東京ふうが75号(令和5年秋季号)

素十名句鑑賞 (14)

蟇目良雨

 
(111)
朝顔の双葉のどこか濡れゐたる
昭和4年

昭和3年に入って素十は或る理由から俳句作りを大っぴらに出来なくなってきた。その理由は素十が居候していた文京区音羽の家の叔母が、素十の将来を心配して研究室に押しかけて来て、卒業論文を早く書くように先輩たちに依頼したために、素十も叔母の手前、しばらく俳句から遠ざかると宣言せざるを得なかったからである。ホトトギスには昭和三年八月号から欠詠して昭和4年5月号になってようやく投句した中に掲句と
おおばこの芽や大小の葉の三つ
靑みどろもたげてかなし菖蒲の芽
の句が含まれていた。何れも植物の芽が見えるか見えぬほどのささいな現象を詠みこんだものである。一緒に句作りをしていた秋櫻子には「何と些細なことを詠むのだろう」と二年後の昭和6年に「草の芽俳句」と貶した「自然の真と文芸上の真」論争の発端の対象になった作品である。

(112)
人中に西瓜提灯ともし来る
昭和4年

 ある句会で誰も採ってくれなかった作品だったがホトトギスに投句したら虚子が巻頭に採ってくれた。翌月の雑詠句評会で秋櫻子が「どこに傑れたところがあるのか分からぬ」と言ったのに対し虚子は「赤い身がうっすら残っている西瓜提灯の中に点された蠟燭の灯が周囲の陰影の中に独り明るく描きだされている」と「ものの先端を捕らえて叙する所の長所がある」と褒めた。
 素十はふるさとの取手在の真闇の中の西瓜提灯を思い描いているのに、秋桜子は神保町辺りの町中の光景の中で鑑賞したために西瓜提灯の灯の強さを弱く見たからから受け取り方に強弱が出たのではないだろうか。


(113)
    須賀田平吉君を弔ふ
生涯にまはり燈籠の句の一つ
昭和6年

 須賀田平吉は叔父高野毅の妻ひろ子の弟。素十とはたった五歳年長であった。それだけ親近感があったのだろう。平吉は中学を出てアメリカのビジネススクールに学び、中退して帰国後に友人と大阪歯科医学専門学校の創設に尽力し、四十三歳に大阪で亡くなった。ひろ子の伯母が、初代東大総長加藤弘之の妻になっている。素十の叔父高野毅は、長岡に基盤を置く日本天然瓦斯創立オーナーで茨城県選出代議士を一期務めた実力者だ。文京区音羽の川筋に、夏は蛍が家に飛び込んでくるような邸宅を構えていた。長岡にも家があり不在の時が多く、素十はのびのびと音羽の家で過ごした。ひろ子の弟の須賀田平吉も、姉の家ということで気楽に遊びに来たことが想像される。平吉は素十に刺激されて俳句を作ってみたが、回り燈籠の一句を残しただけだったなあと偲んでいるのである。


(つづきは本誌をご覧ください。)