東京ふうが75号(令和5年秋季号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

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冬凪ぎて砂に小貝の美しく  吉屋信子

 掲題句の作者、吉屋信子が昭和48年(1973)に77歳で没して半世紀が過ぎた。大正5年(1916)に雑誌『少女画報』に連載した「花物語」で人気を集め、3年後の同8年、大阪朝日新聞の懸賞小説に当選した「地の果まで」で文壇デビューを果たす。
 代表作の一つ、昭和26年(1951)に毎日新聞に連載した「安宅家の人々」が翌年、大映で映画化(主演・田中絹代、船越英二)され、同じ年に「鬼火」で第四回日本女流文学者賞を受賞。
 話が戻るが、大正8年(1919)に発表した作品「屋根裏の二處女」で自らの同性愛体験を明した信子は、4年後、終世のパートナーとなる3歳年下の元女学校数学教師の門馬千代と〝運命的な〟な出会いをする。以後、千代を秘書役にして、昭和40年代にかけて少女小説、家庭小説、伝記小説のジャンルで人気の流行作家となった。
 俳句とは、昭和17年(1942)に文学報国会の女流文学者会で俳人の星野立子、中村汀女と知り合ったのと2年後の昭和19年に鎌倉の大仏裏に疎開したことから、やはり東京から鎌倉に疎開していた高浜虚子を訪ね、教えを乞うたのが始まり。このときのことを信子は朝日新聞に連載した「私の見た人」の虚子の章で記す。坂口昌弘著『文人たちの俳句』(本阿弥書店刊)から引く。
 〈 俳句を学びたいと虚子に挨拶すると、虚子は指先で小さい輪を作り、そこをのぞく顔をして、俳句は小説と違って、ごく小さい狭い部分を見つめることだと言ったことを伝えている。「私はフィクションとかウソのつくりごとはきらい」と言ったとも書いている。「門下の人々は単に虚子を俳句の師と仰ぐだけでなく、それ以上に《心の拠りどころ、精神の支え柱》として虚子を信仰していたからだった。まさに虚子はホトトギス教団の大教祖の感があった」と、信子はホトトギス同人と知り合った経験に基づいて言う。〉
 信子の記述を紹介した坂口は〈「…教団の大教祖」という言葉は、伝統俳句を批判する俳人批評家がよく口にする言葉だが、信子には揶揄する気持ちは一切ない。…信子は非難の意味ではなくむしろ率直な気持ちで書いている。虚子を尊敬する人も非難する人も、同じ精神的な評語になっているのは興味深い。〉と書く
 信子は、鎌倉に疎開中に石田波郷の「鶴」、加藤楸邨の「寒雷」、続いて師事することになった虚子の「ホトトギス」にも投句を始めた。「俳句の不思議な魅力を思う。」と日記に書き留めている信子は、昭和26年(1951)に東京に戻った後、作家活動多忙で投句は途絶えがちになりながらも、句作は続け、久保田万太郎の「いとう句会」や「文春句会」などの文人句会には顔を出していた。
(敬称略)


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