東京ふうが32号(平成25年 冬季・新年号)

銃後から戦後へ 23

東京大空襲体験記「銃後から戦後へ」その24

〈 東京駅物語 2〉=天皇の椅子 =

鈴木大林子

前回、東京駅は私の人生にとって切っても切れない関係にあると言いましたが、実は私が初めてこの駅と出会ったのは高校3年の修学旅行の時ですから、東京の渋谷で生れ中野で育ってから既に20年近い歳月が過ぎていたことになります。

 小学校の6年間は旧制東京高等学校の近くに住んでいましたので、「高等学校入口」というバス停から京王電鉄のバスに乗って幡ヶ谷駅に出、そこから京王電鉄(当時はそう呼ばれていました)で新宿駅に出るのがお定まりのコースで、新宿に出ればそれこそ大都会、母親に連れられて三越や伊勢丹で買物(と言っても子沢山の貧乏世帯ですから大した買物ではなく、母親の息抜きが目的だったのでしょう)をし、デパートの大食堂でお子様ランチを食べるのが最大の楽しみでした。

もう一つの楽しみは京王電車を降りて(当時、京王線は新宿駅南口の甲州街道上を路面電車として走り、四谷方へ降り切った所にあった「京王新宿駅」が終点。これはこの部分だけを路面電車とすることで全線が「鉄道法」よりも設備や車両への規制が緩い「軌道法」の対象路線となることで大幅なコスト低減が図れたため。
従って南口の正面にあった乗換口とそれに続く2箇所は「駅」ではなく「停留所」と呼ばれていました)甲州街道の大陸橋を渡る際。

当時山手線は勿論全線電車化されていましたが中央線の電車は浅川(現在の高尾)まででその先はSL(蒸気機関車)からEL(電気機関車)への過渡期、貨物列車はSLが牽引していたので、現在新宿高島屋のある辺りは貨車入換用のヤード(操車場)があってSLが陸橋の下を通過する時には特有の重々しい汽笛とともに大量の煙を吐き出すのが常で、母親などはたいへん嫌っていましたが子供の私はそれが何よりの好物でした。それでも陸橋の上でいつもSLに出会うとは限らず、又出会っても一瞬の間だけですので段々それだけでは物足りなくなり、休日等には忙しい母親の眼を盗んで朝から片道5K程歩き、時には暗くなるまで下を通る電車や汽車を眺めていたのですから随分と変った子供でした。

それにしても小学生が一銭も持たず、食べ物の一つも持たずに家を飛び出して暗くなって帰って来ても叱るでもなく心配するでもない家族というのも今から考えると変な話ですね。

(つづきは本誌をご覧ください。)