季刊俳誌東京ふうが 平成28年冬季新年号通巻44号

東京ふうが44号(平成28年冬季新年号)

曾良を尋ねて

乾佐知子

78 ─ 殺生石、白河の関、須賀川へ ─

4月19日、黒羽を発った芭蕉らは殺生石を見に行く。途中馬の口輪をとった男が短冊を所望するので即興句を与えた。

野を横に馬牽きむけよほととぎす

 殺生石はあたり一面毒気が漂い蜂や蝶が死んでいた。曾良の『随行日記』に「石の香や夏草赤く露あつし」の句がある。
翌4月20日、芦野へと向い西行が和歌にうたった遊行柳に立寄る。遊行上人が奥羽下向の折、朽木の柳の精が歌を詠んだ場所と言われ謡曲にもなっている。この地にゆかりのある西行に思いを馳せていると刻がたち、いつしか田は一枚植え終っていた。

田一枚植ゑて立去る柳かな

 更に北に急いで12km、白河藩主松平定信のたてた「これより従是北白川領」の領界石が立つ地にようやく達す。
心もとなき日かず重ぬるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。「いかで都へ」とたより便求めしもことはり断なり。中にもこの関は三関の一にして、ふうそう風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉をおもかげ俤にして、青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めし事など清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良

 (昔の人は冠を正し装束を改めて、この白河の関を越えたという。私は路傍の卯の花を髪に挿し、これを晴着として関を越えるのである。)
白河の関は、なこそ勿来、ねず念珠と並ぶ奥州三関の一つ。7世紀半ばに蝦夷への防ぎとして設置された。ここよりみちのく。古来多くの旅人がこの関を越え、歌を残した有名な歌枕の地である。白河の関は古関と新関の二つがあり、芭蕉は両方に立ち寄っている。
新関は栃木県側に住吉明神、福島県側に境神社(玉津島明神)のある県境にあり、前述した定信の碑がある。歌枕は古関の方で平安時代の拾遺集に平兼盛の〝たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと〟をふまえている。


(つづきは本誌をご覧ください。)