寄り道 高野素十論 8
蟇目 良雨
俳句は魔物である。一度身に染みついたものは拭い去ることができない。素十の場合もそうであったろう。これまで、謹慎の意味でホトトギスに投句を控えていたが、好きなものをやめさせることは神でもできないのである。
素十の研究には新潟俳壇を担った中田みづほの「まはぎ」を避けては通れない。素十と同年であるがストレートで卒業した中田みづほと素十は学年でこそみづほが上であるが、終生心の友であり続けた。そればかりか、俳句を先に始めたみづほは、俳句で言えば後輩の素十を虚子と同じ天分を持っていると見做しその俳句を愛し続けたのである。みづほは「まはぎ」を昭和4年9月に発刊しホトトギスの新潟での出城を守る覚悟で運営に当たった。 創刊の昭和4年9月の1年前に、素十は、叔母高野ひろ子からの要請(学位を取るために研究に没頭する)によってホトトギスへの投句を昭和3年8月号から中止していた。
秋櫻子の話では、昭和3年6月に叔母が秋櫻子のもとを訪れて研究に打ち込むように諭してほしいと来たことが書かれている。この時は叔母の意見を汲み素直に従って昭和3年8月号から5か月間投句を休んだが、我慢しきれずに昭和4年1月号にホトトギスに投句し5句入選した。これがよかったのか、欲求不満が解消されたように、その後3か月間の投句自粛に結び付いた。累計9か月の俳句停止期間によって素十が博士号を取れたかというと取れなかった。素十が東京大学医学博士を取ったのは昭和11年で、昭和2年から3年間のドイツ留学の研究を纏めて取った「パラチフス腸炎菌属菌種の鑑別用免疫血清 (独文 ) 高野与巳」を待たなければならなかった。
結論から言うと叔母高野ひろ子の願いによって、俳句を中断する形は取ったものの研究には身が入らなかったのである。表面上は俳句を中断したふりをした素十は、しきりにホトトギス発行所へ顔を出していたのである。
この第一次俳句中断時代のすぐ後に、昭和5年5月、6月、7月の3か月にわたり
朝顔の双葉のどこか濡れゐたる
おほばこの芽や大小の葉の三つ
青みどろもたげてかなし菖蒲の芽
甘草の芽のとび..のひとならび
もちの葉の落ちたる土にうらがへる
などの、客観写生の名句を獲得した。吟行に出かけて得られた佳句である。そしてこの時期は立子を妊娠させた時期にもあたっている。作品がホトトギス誌上に出るまでに普通2か月かかるので、これらは昭和4年3月、4月、5月の時期に得られた句である。立子が早子を産んだ丁度10か月前に相当する。そして、この後再び長い俳句中断時代に入るのである。