東京ふうが55号(平成30年秋季号)

曾良を尋ねて

乾佐知子

110 ─ 伊勢神宮参拝以降の曾良の動向 ─

 

 九月十五日に伊勢神宮の参拝を終えた芭蕉の一行は、十人ばかりで伊賀上野を目指して出発するが、曾良は一人体調不良の為に別行動をとり、伊勢の大智院へ戻っていた。
日記には十七日から二十二日まで何も書かれていないが、その後熱田神宮の修復に貢献した長岡為磨や名古屋の、 大垣で別れた越人らを訪ねたという。しかし二十八日から十月五日までは全く記述がない。そして約一ヶ月振りの
○ 十月六日 辰の刻、長嶋を立、いがへ趣く。時雨す。て止む。風烈し。申の下刻、至亀山に宿す。
合計で八里二十四丁の行程であった。
○ 七日   卯の中刻立。風烈し。越えを 上野に行。申の上刻也。翁は留主。其夜は路通・半左と語る。
半左とは服部半左衛門(土芳)のことで、土芳は伊賀上野本町通りの米問屋に生まれたが、幼くして藤堂藩士の服部家の養嗣子となった。内海流槍術の名手であったが、前年に三十二歳で致仕しており、蓑虫庵という庵を結び俳諧に没頭していた、という人物である。
曾良も弓術と槍術に長けており半左とはその点でも大いに話が盛り上がったであろう。
○ 八日   翁、巳の刻被帰、終日談ず(後略)
芭蕉がようやく八日に帰り、再会を喜んだ二人は終日つもる話をしたという。
こうして曾良の日記をたどってゆくと、俳諧の仲間は当然ながら、その知友の幅の広さに気付く。特に一ヶ月程前、遷宮式に参拝する九月七日のことだが、この日大智院では俳席がもたれ、曾良は芭蕉に初めて対面する客を紹介するのに忙しかった。
○ 七日   七左・八良左・等。帰て七左残り俳有。新内も入来。
「七左」とは吉田七衛門で「八良左」とは藤田雅純であり、通称は八郎左衛門である。この人物は延宝九年(一六八一)には長島藩留守居役で家老も兼務しており、俳号をといった。以前にも触れたが長島藩は元禄十五年(一七〇二)八月に、藩主忠充の乱心が原因でお取り潰しになった。その時この家老の藤田雅純は責めを負って切腹させられることになるのだ。曾良にとってこの人物が単なる俳諧仲間ではないことがよくわかる。
又曾良が長島藩の藩主が良尚から次男忠充に変わった時点で致仕しており、今思えばあのまま忠充に仕えていたら後々どうなっていたかわからない。人生の転機の判断の重要さを知らされたといえよう。
又「七左」の吉田久兵衛豊幸は通称七左衛門といい長島藩士である。三男の良兼が越後の村上に婚礼で行った時使者としてついて行ったのがこの七左だった。
長島藩にとって両名とも重鎮であるにも拘わらず曾良は対等な態度をとっており、この場合も曾良の存在が単なる家臣ではない、ということがよくわかる。


(つづきは本誌をご覧ください。)