東京ふうが55号(平成30年秋季号)

寄り道高野素十論 25

蟇目良雨

 ─ 杉本零の素十論─

 高野素十が亡くなってもう43年が経った。素十の師系に連なる人達で生前の素十に指導を受けた方は極少なく、素十に見えた人も少ない中、私のように素十から遠くいる者にとって素十論を述べることの危うさは重々承知でこれまで「寄り道」的に素十論を書いてきた。その理由は、繰り返して言うが、生前の素十に見えた二人の先達に強く影響を受けたからである。一人は素十の直弟子として病気療養中の素十に代わり主宰誌「芹」の代選を行い、素十没後すぐに『高野素十自選句集』発刊の労を取り、のちに『評伝高野素十』(永田書房、2006年)を著して素十顕彰に一生を送りあまつさえ自らの墓を神野寺の素十の隣に建てた村松紅花先生。もう一人は、「芹」終刊を惜しみ素十の思い出の詰まった新潟に「芹」後継誌「雪」を発刊して今に至るまで素十及び素十を「まはぎ」誌に拠って助けた中田みづほを今も顕彰する蒲原ひろし先生。この二人の熱意に私は揺り動かされ続けてきたのである。

俳壇史的には秋櫻子のホトトギス離脱が昭和初期の俳句史の出来事として喧伝されているが、俳句文芸的にはこの出来事は無意味であったという飴山實の論を前に書いたことがある。

秋櫻子が書いた『高濱虚子』を読むと、ホトトギスの体質が合わなくなってきた秋櫻子がホトトギスを飛び出す口実に「自然の真と文芸上の真」論争をしたと書いてあるが、秋櫻子がホトトギスの虚子に退会の意思を正式に伝えたことは一切ない。
「馬醉木」誌上に素十の俳句は未だ磨かれてない「あらがね」のままでこれでは芸術の域に達していないと「自然の真と文芸上の真」で論じているのだが、素十の俳句も秋櫻子の俳句も甲乙つけ難く、良いというのが私の結論である。

私の意見に近い論を見つけたので紹介したい。それは杉本零の論である。

素十と秋櫻子の「自然の真と文芸上の真」論争があったために素十と秋櫻子は袂を分かち素十はホトトギス即ち虚子の客観写生を生涯守り、片や秋櫻子は新興俳句運動の道を切り拓いたとこれまで言われてきた。
素十が亡くなった昭和51年10月からまだそれほど年月が経っていない昭和53年10月に有斐閣新書として『わが愛する俳人 第二集』が出版され、その中に杉本零が「高野素十 ─ 反文学の文人」と題して素十を論じている。

杉本零は昭和7年生まれ。慶應義塾の学生時代から俳句を始めこの論を書いたときは46歳の油の乗り切ったときである。「略歴に「慶大俳句」を経て「ホトトギス」同人。高浜虚子・星野立子・京極杞陽に学び、独特の写生句を展開。高野素十のように客観写生に徹した作風とは異なり、おのずから柔和な情感の滲み出る、親しみやすい作風。口語体を生かしていることも特徴的。女性や子供を対象とした句が多く、その捉え方はあくまで純粋で濁りがない。鋭敏な作家論の書き手としても知られ、写生文もよくした。酒と俳句を愛し生涯独身だった。没後に句文集『零』(平1)が刊行された。」と現代俳人列伝(191)に高柳克弘が記している。


(つづきは本誌をご覧ください。)