東京ふうが69号(令和4年春季号)

歳時記のご先祖様 3

本郷民男

─ 農事歳時記『四民月令』 ─

歳時記の始祖は帝王のための『月令』で、その次に来るのが豪族の農業経営のための『四民月令』です。

〇『四民月令』はどんなもの

四民というと「士農工商」で、本来の士は諸侯や士大夫で、刀を持ちません。『四民月令』は後漢の二世紀に豪族のさいしょく崔寔が著わした書物です。『旧唐書』の「経籍志」に農家として、『四人月令一巻 崔寔撰』が載っています。儒家、法家などと並んだ農家なので、農学ということです。唐の二代皇帝太宗が李世民なので、民を避けたわけです。
崔寔のことは『後漢書』五二巻に「さいいん崔駰列伝」の付録の子えん瑗・孫しょく寔として出ています。崔寔の一族は財産も地位もありましたが、資産を使い果たして死後にはあばら家の家しか残っていませんでした。それはともかく、崔寔は中国の北方で農場を経営して酒の製造販売をしたり、任地で紡績の指導を行ったりしました。そこで、『四民月令』には自給自足の農業経営のことが書かれています。

〇『四民月令』の散逸と復元

『四民月令』は相当に幅広く流布して、農業の指針とされたようです。ところが、六世紀に農業技術書の『斉民要術』が出現しました。カレンダーのような『四民月令』よりも、技術を詳しく書いた『斉民要術』のほうが良いとして、顧みられなくなったようです。しかし、隋代の年中行事書の『玉燭宝典』などに『四民月令』が引用されているので、それらから大部分が復元可能です。
考証学の盛んになった清代になって復元本がいくつか出ました。日本には『玉燭宝典』などの書物も良く残り、農学も盛んなため、中国と日本で雁行するように『四民月令』の復元研究がなされました。ただ、『玉燭宝典』の九月が欠けているため、九月は半分も復元できません。

〇 正月には勉強

正月は農閑期だから成童以上は大学に入れて五経を学ばせよ、硯の氷が解けたら幼童を小学に入れて篇章を学ばせよとあります。成童は数え年十五から二十歳、幼童は十から十四歳です。児童は寺子屋で読み書き程度の学習をし、物心のついた年代になると、公立や民間の学校で儒教の経典を学びました。二千年前にそういうことのできたのは上流階層であり、四民といっても庶民のことではないです。
正月にも多少の農作業があります。麦、そら豆、瓜、葱などを植えよとあります。ただし、麦などは二月の終わりまでで良いようです。また二月に耕作と穀類の種まきがあるので、二月からが本番です。

〇 三月は養蚕など

穀雨の頃には蚕がことごとく生まれるから養蚕に専念せよと、さすがは絹の国です。そのうえ、稲を撒け、大豆を植える、藍を植える、漆を取れなど、養蚕に専念できたのかどうか。
貧しい者を救済しなさいともあります。つまり、食べ物が尽きる春窮の時期です。『月令』にも三月には天子に対し、倉を開けて貧しい者に施しなさいと規定しています。豪族もそれに準じるということです。
農事は未だ暇だから水路の溝さらいや屋根の修理をしなさいとあります。これも『月令』に準じています。今の歳時記でも溝さらへが初夏、屋根替が春と同類です。

〇 びしお醤の製造

「ひしお」の製造が、各所に出てきます。穀類や豆類から作るのみならず、肉や魚からも作ります。一月には、魚醤、肉醤、清醤を作れとあります。秋田の「しょっつる」は魚を塩漬として発酵させます。それを濾すと魚醤になります。清醤は豆から味噌醤油を作る時の「たまり」のようです。二月には、楡の実で醤を作り、四月にも肉醤を作るなど、毎月のように醤を作ります。塩辛なども、醤の名残かも知れません。
余談ですが、韓国にはケジャン蟹醤があります。日本の蟹味噌は甘いですが、蟹醤は塩辛いです。そのままご飯のおかずにしたり、蟹醤汁にしたりして食べます。蟹醤汁だと、お椀の中に蟹のご遺体が半匹は入っていないと、みな納得しません。なお、歳時記の夏にかに蟹ひしお醢が載っていますが、絶滅寸前です。

〇 五月は虫や雨に備える

五月は虫の害があるので、弓の弦を外します。旃・裘・毛毳などを灰に収め、油衣を竿に掛けるなどとあります。弓として、超弩級の語源の「弩」が挙げられています。「弩」は木を長い時間かけて曲げて作り、威力がありますが保管も大変でした。武器も出て来て、単なる農事歳時記ではないです。旃は毛氈の「氈」という字が未だなくて借字と中国の学者が書いていて、フェルトのことです。裘は皮ジャンパー、毛毳はダウンジャケットです。油衣は雨具でしょう。
稲および藍を別つべしという記述もあります。別つは移植、稲を別つは田植と思われます。稲も藍も三月に撒きます。そして五月に田植などをして、梅雨の雨や高温で一気に成長させます。

〇 六月には畑仕事や衣料と麹作り

六月には速やかにうんじょ耘耡せよとあります。耘耡は鋤で草を除くことで、草取りです。五月に田植えらしい記述がありましたが、北方の畑作地帯なので、畑の作業が主です。麦田の耕しもあります。
紅女に縑・縛を織らせよもあります。紅女は織物を作る使用人です。ここでは絹織物を織ることのようです。正月にも紅女に布を織らせるとあり、夏も冬も仕事をさせていたでしょう。灰を焼いて青、紺、諸々の雑色に染めさせよというのもあります。灰は肥料にもなりますが、媒染剤です。また、青などは身分の高い人、雑色は庶民用の中間色と、使用者に応じた色に染めたのでしょう。織物や染色は、崔一族の家業でもあったでしょう。
六月二十日から麹を作ります。小麦を突いて臼で挽きます。捏ねて寝かし、七月七日に麹を作り、身を清めて神に供えます。酒造が家業なので、力が入ります。


(つづきは本誌をご覧ください。)