東京ふうが76号(令和5年冬季号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

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亀鳴きて亭主は酒にどもりけり  内田百閒

 代表作に『冥途』『百鬼園随筆』『阿房列車』などがあり、飛び切りの 〝乗り鉄 〟でもあった作家、随筆家が没して40余年。三島由紀夫に〈 もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、隋一の文章家ということになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。百閒文学は、人に涙を流させず、猥褻感を起させず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。〉(『日本の文学34』解説 中央公論社)と評された内田百閒(またの名、百鬼園)の俳句について書く。
 『百鬼園俳句帖』(昭和9年刊)、『百鬼園俳句』(同18年刊)、没後に編まれた『定本内田百閒句集(同49年刊)がある。
 詩人、俳人で江戸俳諧考証家の加藤郁乎は、自著『俳の山なみ』(平成21年刊、角川学芸出版)の「内田百閒」の項で、〈 岡山市の造酒業志保屋の一人息子として生まれ育った百閒は少年時代に家産の傾く悲しみを味わう。俳句にのめりこむのは明治四十年、旧制六高に入学してからである。二年生のとき国語教師として赴任した志田義秀(素琴)に俳句また俳諧の手ほどきを受け、六高俳句会また俳諧一夜会を第百夜までつづけた。全十巻に及ぶ随筆小説を遺すかたがた句集三冊を算える俳人百閒を論じたものは思いのほかすくない。わずかに村山古郷、内藤吐天、平山三郎により漱石門で俳句を能くした異色作家として執り上げられてはいるものの、まとまった評伝ひとつとしてなく、百閒はいまだに語られざる俳人と称してよい。〉と歎ずる。
 百閒の人となりをさらに『俳の山なみ』から引く。
〈 百閒の号は生地岡山市を流れる百間川という流れのなき名のみの川から採ったとみずから明らかにしているが、一説(高橋義孝ほか)に借金の音が転訛したものと謂う。百閒は原稿料印税の前借り上手であるにもかかわらず美食ほかの浪費癖甚しく、ために高利貸に常に悩まされた。世間の「大福帳」に対して「大貧帳」を書く反骨、へそ曲がりを貫き通した。〉

 素琴先生の前書きのある師弟俳三昧の一句  

春霜や帚に似たる庵の主

 芥川龍之介祥月命日の前書を付けて  

河童忌の夜風鳴りたる端居かな

 ちなみに芥川と百閒は横須賀の海軍機関学校で同僚教官だった。
 漱石先生納骨ノ宵 漱石山房ニテ 大正五年十二月二十八日の前書付きで
  火桶夜馬の嘶くを聞けり
〈 漱石は「中学世界」のころからの投稿少年百閒(そのころの筆名は雪隠)を愛し、(東京帝大独逸文学科入学で)上京してからは門人として山房への出入りを許し自筆の書幅を与えたりしている。大正三年一月内田栄造(本名)の為に、と前書して「春の発句よき短冊に書いてやりぬ」の一句がある。百閒もまた「漱石俳句の鑑賞」の筆を執るなどして、「肩に来て人なつかしや赤とんぼ」を漱石俳句の絶唱と讃えた。〉と郁乎。


(つづきは本誌をご覧ください。)