東京ふうが80号(令和7年冬季・新年号)

歳時記のご先祖様 14

本郷民男

─ 歳時のマニュアル化 ─

〇 日本にも月令

 中国の歳時記は月令から始まりました。日本にも『本朝月令ほんちょうがつりょう』があります。『群書類従』第6輯に入っているのを、知る人ぞ知るです。著者は明法博士の惟宗公方これむねきんかた(909~996年)で、成立年代がわかりません。というのも、4月から6月までしか残っていないためです。明法博士は律令に定めがない員外官で、政令にあたる格で設置されました。定員が2名でその下に、明法得業生と、明法生がいました。いまなら東大法学部長・法制局長官・最高裁長官を兼務といった所です。とはいえ、官位が低い実務官僚です。
 平安時代に幼帝の出現で、天皇の力が弱体化しました。清和9歳・陽成9歳といった即位年齢なので、藤原良房・藤原基経の親子が、摂政として政治を動かしました。醍醐は摂政を置かなかったものの、藤原時平が実権を持ちました。931年に8歳の朱雀が即位し、藤原忠平が摂政となりました。946年に即位の村上は、摂政を置かずに親政を行いました。『本朝月令ほんちょうがつりょう』が村上朝時代の成立とすると、実務官僚に年中行事をさせるための、マニュアルと言えましょう。さらに、村上自身が儀式書の『清涼記』を書きましたが、完全に散逸しました。「新儀式」の内容がそれと同じと言われますが、「新儀式」もごく一部しか残っていません。ともあれ、村上朝には崩壊して行く律令制を、何とか維持しようとする動きがありました。

〇 小野宮流と九条流

 藤原氏は4家に分かれ、その内の北家が他を圧倒し、忠平もそうです。忠平の長男の実頼(900~970年・小野宮流)と、次男の(909~960・九条流)でまた分かれます。実頼は惟喬これたか親王の邸宅であった小野宮跡に屋敷を構えました。師輔もろすけの屋敷は九条にありました。
 村上が即位すると、実頼が左大臣、師輔もろすけが右大臣となって政権を支えました。官位は実頼が上ですが、実権は師輔もろすけが上回ります。というのは、娘が冷泉・円融と次の天皇の母になったからです。実頼の孫で養子となったc(957~1046年)が『小野宮年中行事』を残しました。没した年に成立とされています。師輔もろすけは『九条年中行事』を残しました。こちらも、没年に成立とされます。師輔もろすけの時代は村上親政とはいえ、摂政や関白が政治を主導する、摂関時代に入っています。天皇と実務官僚が政治を動かす律令時代から、藤原氏という世襲政治家が牛耳る、政治家主導時代になっています。小野宮流も九条流も、一門のためのマニュアルを作りました。
 『本朝月令ほんちょうがつりょう』は法律家が作ったので、根拠となる法律に詳しい記述です。『九条年中行事』は行事の内容を詳しく書いてあります。『小野宮年中行事』は先例に詳しく、先例重視です。ただ、行事書は記述が簡単なので、日記でこれを補います。実資さねすけの『小右記』は、記録魔と言いたいくらい詳細です。師輔もろすけも『九暦』を残しました。一部しか残っていませんが。当時の日記は、暦に書き込みました。道長の『御堂関白日記』すら、暦に書き込みました。紙が貴重だったからです。

 


(つづきは本誌をご覧ください。)