東京ふうが72号(令和5年冬季・新年号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

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マグロは赤身が一番!?

「黄金バット」の紙芝居作家、評論家、庶民文化研究家、時代考証家と多彩な肩書で活躍した加太こうじさん(1998年没、享年80歳)は、庶民的な味を愛した美食家だった。マグロは好物だったが、極上の赤身を良しとし、トロ、取り分け大トロは「人間の食うものじゃない」とけして口にしなかった。
 「江戸時代は捨てていたのを脂っこいものが好きな進駐軍の兵隊たちが喜んで食った。そして洋食なれしてきた日本人もトロをありがたがり出して、近ごろは猫も杓子も大トロさまさま」と加太さん。正月になると、加太さんは親しいマスコミ関係者たちを東京金町の自宅に招いて、大皿に山盛りのマグロの刺身を振舞った。コラム子もご馳走になった一人だが、本マグロの極上の赤身と普段食べている刺身とのあまりの違いに驚いたものである。
 それもそのはず江戸時代から日本橋魚河岸、築地魚市場で商売を続けているマグロ問屋「尾寅」の主人自らが選んだ「赤身」の逸品。二人は、短歌を通じての付き合いで、「魚河岸の兄貴」「金町の兄貴」と呼び合う仲だった。
 「尾寅」十三代目の尾村幸三郎さん(2007年没、享年97歳)は、短歌誌「芸術と自由」同人で歌集「まぐろの感覚」を持つ自由律口語短歌の歌人、また久保田万太郎の「春泥」会員、俳句誌「魚影」編集発行人を務め、尾村馬人の俳号で句集「庶民哀歌」「美しき銭」「いちば抄」などがある俳人店主。関東大震災で壊滅した日本橋魚河岸で生まれ育ち、築地移転後も魚河岸人として仲卸の仕事を続けながら名著「日本橋魚河岸物語」(青蛙房刊)を世に問うた。ちなみに最近27年ぶりに同じ版元から新装版が復刻されたのはうれしい。
 ところで面白い馬人句がある。句集「いちば抄」の春の部の中に「加太こうじ兄へ」の前書付きの二句。〈 中トロはわが生涯よ四月馬鹿 〉〈 中トロは少し眺めてから喰べる 〉「赤身が一番」と肝胆相照らす二人だったが、句意をぜひ聞きたいが泉下の俳人に訊く由もないのが残念。

柿くはぬ腹にまぐろのうまさ哉     正岡子規
魚河岸の晝の鮪や春の雪     高浜虚子
敬老の日の給食の鮪鮨      角川源義
これやこのとろまぐろ鮨冬の夜は       村山故郷
ひや〳〵と鮪に垂らす醤油かな       日野草城
通夜の鮨まぐろが赤き夜寒かな      草間時彦
焼津より鮪売来る秋まつり       橋本榮治
海贏打や鮪庖丁恐しく       野村喜舟
此の岸の淋しさ鮪ぶち切らる      加倉井秋を

 


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