東京ふうが77号(令和6年春季号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

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春の宵レジに文庫の伏せてあり  清水哲男

 第25回H氏賞、第1回詩歌文学賞、第2回萩原朔太郎賞、第6回山本健吉賞など数多の受賞歴を持つ詩人、俳人の清水哲男さん(2022年3月、84歳没)は、1997年から2016年まで20年間、一日一句増殖のインターネットサイト『増殖する俳句歳時記』を運営。有名、無名俳人、文人俳詠みなどの多岐にわたる俳句を鑑賞、紹介してきた。
 サイト開設から10年間は、数回を除き一人で一日一句鑑賞、増殖作業を続け、2006年夏からは詩や俳句仲間の松下育男、八木忠栄、今井聖、中岡毅雄、今井肖子、土肥あき子、三宅やよいさんらが加わり、交代で増殖作業を続けた。
 清水さんは還暦を迎えた1998年2月15日の誕生日から、以降増殖停止まで18年簡、誕生日ごとに自句自解の一句を加えていく。
 タイトル句〈 春の宵レジに文庫の伏せてあり 〉は、句集『打つや太鼓』所収の一句。2009年の誕生日の増殖句だが、この日がたまたま当番だった松下育男さんが選句、鑑賞。その一部を引く。
 〈 レジの上に、不安定な格好で伏せられた文庫本が、まざまざと目に見えるようです。その文庫本を手にする人の思いの揺れさえ、じかに感じられてくるから不思議です。なんとうまくこの世は、表現されてしまったものかと、思うわけです。〉
 漫遊漫歩子の鑑賞を加える。夜更けたコンビニで独り店番のアルバイト学生が、暇つぶしに文庫本を読んでいると客が来て、持ち帰りのおでんを注文。店番の若者は読んでいた文庫本をレジ横に伏せて接客。「玉子、はんぺん、じゃがいも、すじ、だいこん」と客。黙々と応じ、客が無言で出て行くと、若者はまた読みかけの文庫本を手にする。そんな情景が浮かぶ。都会の孤独が二重写しになる好きな句である。
 増殖歳時記の哲男句(句集『匙洗う人』)から自句自解句を拾う。 

将来よグリコのおまけ赤い帆の

 冒頭に〈 自句自註など柄でもないが、60回目の誕生日に免じてお許しいただきたい。子供の頃、なけなしの小遣いをはたいて、せっせとグリコを買っていた時期がある。告白すれば「おまけ」が欲しかっただけで、飴をなめたいわけではなかった。…「おまけ」の小箱にはさまざまなセルロイド製の玩具が入っており、取り出す瞬間のゾクゾクする気分がたまらなかった。「なあんだ」とがっかりしたり、「やったあ」と大満足したりと……。それだけのために、全財産(!)をはたいていた。そうした子供の熱中を思うにつけ、どんな子供にも「将来」があるのであり、でも「将来」にはグリコの「おまけ」ほどの保証もないことを思い合わせると、まことに切ない気分になってくる。本物の赤い帆が待ち受けている子供など、皆無に近いのだから。(哲男)〉ちなみに哲男さんの俳号は、赤帆。  

春いくたび我に不落の魔方陣

 〈「魔方陣」はn×n個の升目に数を入れて、縦、横、斜め、どの一列のn個の数も一定になるようにしたもの。紙の上の魔方陣ならいずれ何とかなるけれど、「春いくたび」馬齢を重ねて見ても、人生の魔方陣ってやつはどうにもならないなあ…と。物心ついたときには、空爆が日常という世代である。死なないで、今日誕生日を迎えられたのは偶然だ。私という存在は、神さまが気まぐれに解く魔方陣の片隅に入れていただいた一つの数字のようなものかもしれない。〉


(つづきは本誌をご覧ください。)