「俳句鑑賞」タグアーカイブ

平成30年夏季佳句短評

東京ふうが 平成30年夏季号「墨痕三滴」より
お茶の水句会報398回〜401回より選

雲の峰厨で皿の割れる音    松谷富彦

雄大な雲の峰を仰ぎ見ていると厨から皿の割れる音がする。大自然の中の生活感の一瞬。自然の中に生かされている自分を見、普段の生活で妻子に生かされている自分を発見したのではないだろうか。

指先に探る脈拍太宰の忌     深川知子

太宰の忌日に思わず自分の脈拍を指で確かめようとした。生きている自分、死んでいる太宰。ここに大きな壁が立ちはだかる。作者は己を鼓舞して太宰に近づこうとしたに違いない。

風死して羽化のかなはぬもの数多    花里洋子

今年の暑さは「危険なほどの暑さ」が続いた。そんな暑さの中、ぐったりしているのは実は人間だけでなく羽化を待っていた多くの昆虫が羽化できずに死んでいたことを発見したのだ。

アトリエにヌードモデルと蚊遣豚    荒木静雄

今でもこういう光景は見られるのだろうか。絵画教室のひとこまと思うが、ヌードモデルが蚊に刺されないように蚊遣豚が用意されている。木造の隙間のあるアトリエが想像される滑稽味を帯びた句。

玄海の波の眩しき多佳子の忌    河村綾子

橋本多佳子の華は小倉の櫓山荘に文人を集めていたころ。その忌日を偲ぶとき作者は玄界灘の波の眩しさを眼前にしている。多佳子の華々しさが髣髴としてくる。


平成30年春季佳句短評

東京ふうが 平成30年春季号「墨痕三滴」より
お茶の水句会報396回〜397回より選

草笛の止みて水音もどりけり    乾佐知子

草笛の音に隠れてしまうようなわずかな水音。田園の静かな光景が目に浮かぶ。

巣燕の声にひと日の新しき     深川知子

巣燕に声をかけて一日が始まる生活感に溢れる。

国曳きの神のまほろば春の雪  石川英子

出雲の神の神域にふる春の雪。「国曳きの神」と呼んで記紀の時代に遊んだ。

戻りたる日差しに桜あざらけし   河村綾子

日差しの変化に一喜一憂する作者の純情さ。

土蜘蛛の白き糸映ゆ薪能    大多喜まさみ

薪の火灯りに映える土蜘蛛の投げた糸の白さ。的確な表現になっている。


東京ふうが41号 (平成27年 春季号)

編集人が語る「東京ふうが」41号

「東京ふうが」編集人より

東京風が41号 平成27年春季号5月に杉田久女研究者の坂本宮尾さんの講演を伺ったが、坂本さんは「虚子が久女の句集出版を認めなかった理由が、調べれば調べるほど分らなくなってきた」という。
「東京ふうが」で考察している「寄り道 高野素十」はまさにこの辺りにメスを入れつつあると思うが如何。

蟇目良雨 

目 次

名句逍遥
欣一俳句の鑑賞(20) 高木良多
良多俳句の鑑賞(20) 蟇目良雨

作品七句と自句自解「春季詠」ちょっと立読み

墨痕三滴(俳句選評) 鑑賞:蟇目良雨
(お茶の水句会報359~361号より選んだもの)

「高幡高麗氏の残像」 高木良多
峰岸純夫先生の講演要旨-

12 八千草日記 高木良多
(11) 金柑の花ちょっと立読み
(12) 篝火草(かがりびそう)

13 【特集】若月瑞峰と高橋由一ちょっと立読み 高木良多

15 寄り道 高野素十論 < 12 >ちょっと立読み 蟇目良雨

26 曾良を尋ねて < 24> 乾 佐知子
関係諸藩と伊奈家との関わり ほかちょっと立読み

29 旅と俳句 新涼のハルビン・大連紀行<3>ちょっと立読み 石川英子

34 第2回 「遊ホーッ」 洒落斎
漢字の部首ちょっと立読み

35 ふうが添削コーナー会友招待席ちょっと立読み 高木良多

36 「お茶の水俳句会」の歴史 井上芳子編

44 「東京ふうが」の歴史年表 井上芳子編

61 あとがき 蟇目良雨

62 句会案内

表3 東京ふうが歳時記 < 20 >【 春 】 編集部選

鑑賞「現代の俳句」(26)

木の橋の裏のからくり河鹿笛 岸原清行 [青嶺]

「俳句研究」2010年夏号

河鹿笛は河鹿の鳴き声を誘うために吹く笛。ヒョロヒョロと哀切な調べがする。掲句は、まだ明るいうちに河鹿笛を吹くために河原に下りたのであろう。橋の下に来てみると木橋の裏側がよく見える。橋の上を通るだけでは見えることのなかった木橋の裏側の構造を見ることになった。そして木組ゆえの構造の複雑さを橋の匠の作り上げた「からくり」のようであると感心して見上げたのである。東照宮の神橋、錦帯橋、大月の猿橋など橋の裏にからくりが見られるが、河鹿笛にふさわしい橋とはどんなところであったのだろう。観察眼の確かな句であると思った。
河鹿の鳴き声を河鹿笛とする誤用がある。注意したい。

 

買つて来し田亀が飛んでしまひけり 松浦敬親 [麻]

「俳句研究」2010年夏号

単純なことを言っているのだけれど笑わされてしまう句である。亀が空を飛ぶはずはないのだがそう思わせるような錯覚を先ず読者に起こさせる。亀と田亀は全然別物であるのだけれど。水中に住んで蛙や小魚を捕食してしまう昆虫の田亀の生態からまさか空を飛ぶはずが無いと思っていたら、飛び去ってしまったと嘆いているのである。それもわざわざ買ってきた田亀が。水中で暮らし、陸上でも生きてゆけ、空中も自在に飛べるなんて田亀はスーパー昆虫であったことに作者も読者も気が付いた滑稽さは十分共有できる。

 

西湖に来ていきなり蓮の花に会ふ 松崎鉄之助 [濱]

句集『東籬の菊』から

中国は杭州の西湖での句。杭州は「越」の国にある。呉王夫差、越王勾践の「臥薪嘗胆」の舞台であり、そこに西施が歴史に華を添えている。西湖は風光明媚であるが、壮大な中国にしては小じんまりとした景色である。西施と西湖は直接関係が無いが、越の生まれの西施を偲んで、西湖の干拓などを手がけた地方長官蘇東坡の詩に因って二つは固く結びついてしまう。

[飮湖上初晴後雨]   [湖上に飲めば晴のち雨] 
蘇軾(蘇東坡)   (著者意訳)
水光瀲灔晴方好   さざ波びかりの水面もいいが
山色空濛雨亦奇   雨に煙れる山もいい
欲把西湖比西子   西湖と西施を較べてみれば
淡粧濃抹總相宜   化粧も素顔もみんな好き

好きになれば痘痕も笑窪というところ。
 西施にまつわる伝説に、川沿いの薪屋の看板娘で、副業でもある布晒を川岸でしていると、水中の魚が西施の美しさに驚いて溺れ沈んでしまい「沈魚美女」の名が付けられたとか、「採蓮人」とも言われ、西施を花に喩えると蓮の花になる。

 さて作者は米寿の頃中国を旅し、西湖に行ったらいきなり蓮の花(西施)に会ったと喜んでいるのである。西施に会うことが出来た老いらくの恋によって艶々とした作者の顔は益々照り輝いたことであろうと想像できる楽しい一句になった。

 

由良の門へいそぐ川波夏よもぎ 西嶋あさ子 [瀝]

「瀝」2010年夏号

上五から次の歌を思い出す。

由良のとをわたる舟人かぢをたえ
行方もしらぬ恋の道かな 曾禰(そね)好忠(よしただ) 

由良の門を、紀伊国の由良海峡とする説と、丹後国の由良川の河口とする説があるが、いずれにしても「行方も知らぬ恋路」に胸を焦がす人がいる。
掲句はそれを下敷きにしているのだが、恋に焦がれた若者の船がいそぐ川波に乗って由良の門に着いたのは良いが、さて上陸という段になって夏蓬が邪魔をしているのである。
「いそぐ川波」は青春時代の作者の化身であろうか。


名の木の芽ひとつひとつに雨雫

高木良多講評
東京ふうが 平成22年春季号「墨痕三滴」より
お茶の水句会報298~301号より選

名の木の芽ひとつひとつに雨雫  蟇目 良雨

 

名の木の芽はたとえばしだれ梅のような大切にされている庭木の芽なのであろう。そこへ雨が通りかかったので、ひとつひとつに雨雫がたまっている写生の句、とり合わせの句ではない。「一物仕立ての句」となっている。とり合わせの句とくらべて難しいとされているが、努力すれば名句が生まれる。